岸本です。
今日は新たな章「荘子 宋を去る」を読みました。
あらすじは以下の通りです。
一人で思索にふけり、貧しいながら麻でわらじを作って何とか生活をする荘子。
遂に空腹に耐えかね、飯を求めて堤防を管理する友人のところへ行くも、体良く断られてしまう。
そこで麻のわらじを食べて空腹をごまかすも、満たされない。
「血あり、肉あるもの」を求めて釣りをすることにした荘子は、近くで見つけた髑髏から、亡き女房を思い出す。
そして葬式では流さなかった涙をこのときになってはじめて流すのであった。
こうして生きた人間の味を求めるようになった荘子は、ただひとりの知己、恵施の下へ向かう。
しかし梁の国で宰相を務めていた恵施は、賢子として名を知られた荘子が、自らの地位を脅かしに来たと誤解し、荘子を冷たくあしらってしまう。
その態度に荘子はため息をついて「やれやれ、人間の滋味とは、こんなものだ。こんなものだ。」と語り、話は終わる。
これは物語全体をつかむ上で、重要なことです。
例えば「滋味」はこの話のキーワードですが、意味がわからなければ、話の趣旨もつかめません。
次に恒例のごとく話に関する感想を述べ、その後お互いの感想に意見を述べました。
荘子と恵施の関係に二人とも関心を持ったようで、特に恵施の態度で意見がわれて大変興味深かったです。
続いて、思想史上の荘子の位置づけやその思想内容を簡単に説明しました。
老子と同じ思想傾向をもつ荘子の最大の特徴は「万物斉同」です。
「道」の観点からすれば、物事は全て同等である、という相対主義的な思想は、老子よりも非世俗的であることが指摘できます。
これを踏まえて、荘子の心情の変化を追いました。
非世俗的な世界から、欲望をとおして世俗的な世界へ転向し、そして恵施の冷たい態度に厳しい現実を見て、再び非世俗的な世界に転回する。
そこに「荘子の現実からの逃避」を見出します。
荘子の思想自体をそう捉えることには、異論があると思いますが、少なくともこの作品の荘子にはその平凡な心情が見て取れます。
寧ろ歴史上の荘子と物語上の荘子の対比がこの話、また歴史小説の醍醐味だと私は思います。
ここで時間が来たので、次回は私からの提案「荘子の現実からの逃避」について二人に論じてもらおうと思います。
今日の話は、中学生にはまたも難しい思想の話で、二人ともキョトンとした目をしていました。
説明する力量の不足は私の責任ですが、これを機にわからないところはとことん質問するようなクラスにしていければと思います。
山下です。
文科省的には中学生には孔子の論語でしょうが、
私は寧ろ、老荘思想に接する機会の方が、のちのち
貴重な読書経験になるだろうと思います。
孔子的なものの考え方、言い方に接するチャンスは
いくらでもあるわけで、老荘思想の逆説には
中学生も「なるほど」と目を開かれることが多く
あるだろうと思います。かく言う私もそうでしたので。