福西です。更新が止まってすみません。
今日は久しぶりに和歌をしました。
秋の田の かりほの庵の 苫をあらみ わがころもでは つゆにぬれつつ
天智天皇(百人一首1)
そろそろ刈穂が見られる季節です。
古い言い方で日本のことを秋津島ともいいますが、万葉集一巻2歌に見られる「蜻島」の蜻(あきづ)が何かというクイズをしました。
また、同じ万葉集から、額田王が天智天皇に「春と秋のどちらがいいですか?」と尋ねられて、歌にして答えたという、1巻16歌を紹介しました。
冬こもり 春さり来れば 鳴かずありし 鳥も来鳴きぬ 咲かずありし 花も咲けれど 山を茂み 入りても取らず 草深み 取りても見ず 秋山の 木の葉を見ては 黄葉をば 取りてぞ偲ふ 青きをば 置きてぞ嘆く
そこし恨めし 秋山吾は (万葉集1.16)
私なりに意訳すると、こんな感じです。
冬がすぎて、春がやって来ると、鳥が鳴き、花が咲きます。けれども春の山は、木がいっぱい生えているので、中に分け入って花をつむことができません。それに草がぼうぼうに生えているので、花をつんで眺めることもできません。
でも秋の山は(草が枯れるので山に入って葉を近くで見られますが)、黄色いもみじをひろっては、「はあ」となります。青い葉をそっとしておいては、「はあ」となり、そこが惜しいのですが、そんな秋の山が私はいいです。
額田王のこの歌は、「だから秋がいい」というほどの理屈にはなっていないように思います。極端につづめると、「春はいいけどここが残念。秋もいいけどここが残念。私は秋がいい」となるかと思います。
「惜しい」というのはむしろ、「いとおしい」ということなのでしょう。
先週は科学的な、理屈っぽい話をしました。それで、今日はこういう理屈抜きな(昔から日本人にある)ものを見ておきたいと思ったので、紹介しました。
ちなみにクラスでは、好きな季節を訪ねると、春が1人、秋が1人、夏が2人、冬が1人でした。
ここ最近、空がとてもきれいです。
残りに時間をとって、俳句作りに外に出ました。
なお、先週は卵を立てる実験をした後、『立春の卵』(『中谷宇吉郎随筆集』所収、岩波文庫)の一節を読みました。次に出る山びこ通信の稿で触れています。またその時にご覧ください。