浅野です。
11章ではバートランド・ラッセルが槍玉にあげられます。
デューイに言わせれば、ラッセルの議論は問題提起で論点を先取りしているのです。「感覚の対象」という用語を使った時点で認識主体と認識対象を想定しています。ラッセルにはテーブルのような物体の永遠性を想定している節もあるようです。
このあたりはすごく読みづらかったので、私が誤読している可能性もあることを念のために申し添えておきます。
山の学校は小学生から大人を対象とした新しい学びの場です。子どもは大人のように真剣に、大人は子どものように童心に戻って学びの時を過ごします。
浅野です。
11章ではバートランド・ラッセルが槍玉にあげられます。
デューイに言わせれば、ラッセルの議論は問題提起で論点を先取りしているのです。「感覚の対象」という用語を使った時点で認識主体と認識対象を想定しています。ラッセルにはテーブルのような物体の永遠性を想定している節もあるようです。
このあたりはすごく読みづらかったので、私が誤読している可能性もあることを念のために申し添えておきます。