浅野です。
知見を深めるため、夏休みの間にジョン・デューイ著、清水幾太郎、清水礼子訳『哲学の改造』(岩波書店、1968)を読みました。それが早速役立ちました。
Essays in Experimental Logicの1章の終わりのほうを読んだのですが、当時の状況がわからないせいか、かなり理解しづらかったです。『哲学の改造』を読んだおかげで大きな筋を見失うことはありませんでした。
その大きな筋とは、知は現実の生活場面での問題を解決するためのものであり、分業に伴って具体的場面から切り離された知を扱うことを専門とする人が登場するが、それでも知の妥当性の究極的な判断は現実の生活場面での問題解決に適用できるかどうかである、という主張です。
ここで注意すべきなのは、デューイがidea(観念)やideal(理想)を否定していないことです。プラトンやアリストテレスに代表される古代の哲学ではそれらが人間の外にある究極の理想として観念されたのに対し、デューイは現実世界を変える原動力になるといった趣旨のことを述べています。例えば遠く離れた人と意思疎通ができればいいなという観念(理想)について、テレパシーのようなオカルトに帰着するか、電話の発明をもたらすかという違いです。