浅野です。
ルソーの『エミール』の中巻を読みました。
現代でもそのまま通用する議論が満載です。ルソーの洞察力に加えて、近代の共通点の大きさを感じます。
都会の子どもは想像力が刺激されるので性が早く目覚め、その分弱くなってしまうといった議論は、ここ数十年の日本の状況の議論にも通じます。「幸福な無知」という逆説も興味深いです。
「サヴォワ助任司祭の信仰告白」もいろいろとおもしろかったです。
わが子よ、傲漫と不寛容とがどんな不条理に導くかを知るがいい。みんなが自分の説を固執し、人類のほかの人々をおしのけて自分だけが正しいと考えようとすると、こういうことになるのだ。わたしは、わたしが崇拝し、あなたに教えている平和の神に、わたしの探求はすべて真剣であったと保証していただく。しかし、そういう研究は成功しないこと、いつになっても成功するはずがないことを知り、自分がはてしない海に流されていくことを知ったわたしは、あとにひきかえして、わたしの信仰を自分の素朴な観念のうちにおしとどめることにした。学者にならなければ地獄に落ちるなどと神が言っているとはわたしにはとても信じられなかった。そこでわたしは、すべての書物を閉じてしまった。すべての人の目のまえにひらかれている書物が一冊だけある。それは自然という書物だ。この偉大で崇高な書物を読むことによってこそ、わたしはその神聖な著者を崇拝することを学ぶのだ。なんぴともそれを読まずにいることは許されない。その著者はすべての精神に理解されることばで、すべての人間にむかって語っているからだ。かりにわたしが人の住まない島に生まれたとしても、自分のほかにはどんな人間にも会ったことがないとしても、むかし世界の片隅であったことをぜんぜん教わらなかったとしても、わたしの理性を訓練し、育てていくなら、神がわたしにあたえている直接的な能力を十分によくもちいるなら、わたしは、神を知り、神を愛し、そのみわざを愛し、神が欲する善を欲し、神意にかなうように、この地上にある自分のあらゆる義務をはたすことを、自分で学べるだろう。それ以上のどんなことを人々の学識のすべてがわたしに教えてくれるのか。
ルソー著、今野一雄訳『エミール(ワイド版 岩波文庫) 中巻』(1994,岩波書店)pp.207-208
この箇所などは特に名言だと思います。
エミールの話に戻ると、思春期の男の子は地方の学校で部活動で身体を消耗させて余計なことをしないようにすると今なら読めるような記述もあり、ここでも現代への適用可能性を感じさせられました。
古典ならではですね。これをじっくり読めるのも私塾ならではです。ルソーを含めた古典作品を学校で読む機会があればよいと思いますが、「試験対策」がそれを阻むのだと思います。