引き続き論点の洗い出しです。
これまでライトノベルを私小説に対置して虚構度の高い小説だと論じてきました。大塚英志さんが『キャラクター小説の作り方』で、私小説は現実の模写、ライトノベルはアニメやマンガ等の虚構の模写であるという趣旨のことを述べていることとも通じています。
しかし現実や虚構といった言葉は曖昧です。それよりもライトノベルでは登場人物がキャラクター化されている(単純な特徴で描写され、複雑な内面が描写されることはない)ということのほうがわかりやすい特徴かもしれません。
それから、なぜライトノベルでは私小説のように複雑な内面が描写されることがない(あるいはきわめて少ない)のかという疑問を考えました。そして、もしかすると、ライトノベルは一人で読むのではなく、それを周囲の友人たちと共有することが前提となっているのではないかという考えに思い至りました。周囲で共有するならば強烈な一人称的な語りよりも、あっさりとした描写のほうがよいのではないかという考えです。
それは現代の社会情勢とも関係しているかもしれません。グローバル化や価値観の多様化が進んだ現在では、多様な考え方ができることが求められます。インターネットについても、メールはそれまでの手紙との類推で捉えることができますが、SNSや掲示板などは共有されるということに特徴があり、そこでは主観の発露が制限されます。
わからなくはないけれども頼りのない議論になってきたので、既存の言説に接続したいところです。