「山びこ通信(2014年度秋学期号)」より、下記の記事を転載致します。
『ロシア語講読』
担当 山下大吾
前身である入門コースから前学期まで、Tさんお一人と差向いで行われていたこのロシア語クラスに、今学期からNさんが新たに加わりました。トリオでの講読となり、それぞれ自分一人では中々見いだせない新たな読みや解釈の生み出される機会が増え、以前より増して活発な時間が営まれています。以下に述べる作品は間もなく読了の予定で、次はプーシキンのロシア南部流刑時代の代表作である『ジプシー』に取り組みます。
現在講読のテクストはプーシキンの劇詩『モーツァルトとサリエーリ』です。モーツァルトの死を巡って当時噂されたサリエーリによる毒殺説をテーマに、プーシキンの詩的天分がいかんなく発揮された作品で、ミロシュ・フォルマン監督の映画『アマデウス』の原作の一つとしても知られています。
主人公はシンプルな表題そのまま、プーシキン自身の似姿である天衣無縫の天才モーツァルトと、彼に嫉妬する職人気質、努力の人サリエーリ。今ではロシア語の熟語として定着してしまった「ハーモニーを代数学でチェックする」という冷徹な態度で音楽を分析するサリエーリも、音楽の持つ深み、勢い、調和を、軽々とこの上なく見事に再現するモーツァルトの才能を前にして、彼を「神」と認めざるを得ません。それに対してモーツァルトは、茶目っ気たっぷりに、しかもサリエーリの言葉と同じヤンブという厳格な韻律に則った調子でこう答えます。「でも僕の神ってやつは腹がへっちゃってね」。
既出の単語や表現、モチーフが効果的に繰り返されることによって、簡素に、贅言を要せずして行間や紙背から無理なく複層的にメッセージが伝わり、それを読み解く楽しみはまた格別です。軽く口語的な響きのモーツァルトと、重々しく文語的なサリエーリという文体の対立は両者の性格をより一層際立たせていますが、訳読する立場としては、口語特有の簡略表現などが少ないサリエーリの方が往々にして理解しやすいのは何とも皮肉なものです。文法的読解ほど、先に引いたサリエーリのモットーである「ハーモニー」的態度が求められるのだと改めて気づかされます。結局我々外国語を読み解く者は、どこまでもサリエーリと同じ立場を堅持すべきなのでしょう。その姿をモーツァルト=プーシキンは、微笑ましく見つめているのかも知れません。