ことば1~2年B(0507)

福西です。前回の記録からだいぶ空いてしまいましたが、5/7の記録です。

この日は、『地獄』(白仁成昭・宮次男 /著、風濤社)の絵本を読みました。

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生きている間にたとえ罪がばれなくても、死んだ後にそれがばれるというのは、誰しも背筋のぞっとする話です。

罪状に応じて、「~をした者は~地獄」「…をしたものは…地獄」と、様々に用意されている行き先。しかもそれは「ひとまず」落ちる場所であって、決してそれで罪が消えるのではなくて、いくつもの地獄の間を何万何億周しなければならないという、途方もなく長い刑期が待っています。

血も涙もない、薄ら笑みさえ浮かべる獄吏の鬼たち。その容赦のない呵責。

たとえば血の池で、息ができずやっと顔をもたげたところを、すぐさま上から金棒で押さえつけられ、再び顔を沈められる苦しみ。

「餌をやらなかったり、足を引きちぎったりして、動物や虫をいじめた者がまず落ちる」という地獄も、絵本には載っていました。それは日常のイメージと結びつきやすかったのでしょうか、生徒たちの顔を見ると、ひとしおに神妙な様子でした。

そういう絵を見せられると、主客を変え、どんなささいなことでも、悪いことはできないものだと素直に思わされます。また、その死なない身に与えられる痛みや刑期の長さを考えると、生きている間に悪行で得た目先の利益が、果たして何になるのかという、途方もない気にもさせられます。

私自身、子供の頃、天橋立の『地獄絵図』を見て、強い印象を受けたことがあります。

「先生はな、これまでいっぱい悪いことしてきたから、たぶん地獄行きやろうなあ」

と、ポソリと呟くと、

「でもいいことしたら、罪が軽くなるんやろ?」

と必死に弁護してくれる生徒もいました。

そうかもしれません。そうでないかもしれません。

地獄は、人の心の中にこそあるのだと言う人もいます。どこにもないのだと言う人もいます。地獄の話は、人それぞれに異なる受け取り方があります。

ただ、本当にあるかどうかは別として、この世において目先にとらわれない視野を持つという意味では、めいめいの「地獄観」があっても、損はないように思います。

そう思って、この絵本を読みました。

三途の川の前にいる奪衣婆と、賽の河原の石を積む子どもたちの描写で力が入りました。

あちらでは、衣と、一本の髪の毛とを天秤にかけ、衣の方が重ければ地獄へ、髪の毛の方が重ければ極楽へという、ほとんど不可能事とも思える厳しい判定を下す、奪衣婆。

こちらでは、十個の石を積み終えれば極楽へ行けるという約束で、鬼たちの様々な妨害に遭って、何度も涙を流す幼い子供たち。そのそばには、地蔵が立っていて、もし石を積み終えた子供を見つければ即座にその錫杖で引き上げようとして、じっと見守っています。それまで、地蔵は決して鬼のすることに手出しできません。

何度繰り返しても、父母に届かない嗚咽が、生徒たちにとっては、この絵本で一番あわれに感じられたようでした。

 

残りの時間は、暗唱のおさらいをしました。前に出てきてもらい、それぞれの進捗に応じて「半分合格」または「全部合格」の印をつけました。