福西です。
今回じかに参加できないので、バーチャル参加でよろしくお願いいたします。
牧歌7歌21-44
Corydon
Nymphae, noster amor, Libethrides, aut mihi carmen,
ニンフらよ、我が愛しい人よ、リベトルスの娘(ムーサ)らよ、いざ私に歌を、
quale meo Codro, concedite (proxima Phoebi
私にも(meo)コドルスのように(quale Cordo)、授けよ(concedite)、ポエブスに次ぐ歌を(proxima phoebi)
uersibus ille facit), aut, si non possumus omnes,
交代で(versibus)彼コドルスは作ったが、しかしもし我々全員が(omnes)そうできないのなら、
omnesすべての歌を?でしょうか。
hic arguta sacra pendebit fistula pinu.
ここで(hic)、心地よい音がする笛を(arguta fistula)松に(pinu)彼は(我らは?)ぶら下げるだろう(pendebit)。
Thyrsis
Pastores, hedera nascentem ornate poetam, 25
牧人らよ、きづたを(hedera_)成長している詩人に(nascentem poetam)かぶせよ(ornate)、
Arcades, inuidia rumpantur ut ilia Codro;
アルカディア人らよ、嫉妬深いコドルスによって(invidia_ Codro)内臓が(ilia)破られるがよい(rumpantur.sub.)
utが分かりませんでした・・・。
aut, si ultra placitum laudarit, baccare frontem
しかし、もし誉められた者を(placitum)過度に(ultra_)彼が賞賛したなら(laudarit)、バックスの草で(baccare)額を(frontem)
cingite, ne uati noceat mala lingua futuro.
巻け(cingite)、悪い舌が(mala lingua)未来の詩人を(vati futuro)傷つけませんように(ne noceat)。
Saetosi caput hoc apri tibi, Delia, paruos
剛毛の猪の(saetosi apri)この頭を(hoc caput)汝ディアナよ、
et ramosa Micon uiuacis cornua cerui. 30
それと長生きした鹿の(vivacis cervi)小さな枝状の角を(parvos ramosa cornua)ミュコンは(捧げる)。
Si proprium hoc fuerit, leui de marmore tota
もしも続いて、このようなことが(hoc)あったなら(fuerit)、滑らかな大理石で(de levi marmore)
puniceo stabis suras euincta coturno.
紫の靴で(puniceo coturno)ふくらはぎを(suras)縛られた(evincta)像として(tota)君は立つだろう(stabis)。
Thyrsis
Sinum lactis et haec te liba, Priape, quotannis
乳の(lactis)広い杯を(sinum)、そしてこれらのケーキを(haec liba)、プリアープスよ、毎年
exspectare sat est: custos es pauperis horti.
凝視することが(exspectare)十分ある(sat est)。貧相な庭の(pauperis horti)番人(custos)だ、君は。
Nunc te marmoreum pro tempore fecimus; at tu, 35
今大理石の君を、こめかみの前で、われらは作った。しかし君よ、
si fetura gregem suppleuerit, aureus esto.
もし子孫が(fetura)群を(gregem)はちきれんばかりにするなら(suppleverit)、君は黄金であるだろう。
Corydon
Nerine Galatea, thymo mihi dulcior Hyblae,
ネレウスの娘ガラテアよ、(あなたは)私にとって(mihi)ヒュブラの(Hybrae)タイム(thymo)より甘く(dulcior)、
candidior cycnis, hedera formosior alba,
白鳥(cycnis)よりも白く(candidior)、白いきづた(の花)(hedera alba)よりも麗しい(formosior)。
cum primum pasti repetent praesepia tauri,
育てられた牡牛たちが(pasti tauri)はじめてpraesepia(saepia)へ引き返す(repetent)とき(cum)、
si qua tui Corydonis habet te cura, uenito. 40
もしこのコリュドンに対する(Corydonis)何らかの心配が(qua cura)あなたを(te)掴んでいるのなら(habet)、いつか来てください(venito)、
Thyrsis
Immo ego Sardoniis uidear tibi amarior herbis
horridior rusco, proiecta uilior alga,
si mihi non haec lux toto iam longior anno est.
もし(si)私にとって(mihi)今の(iam)この一日が(haec lux)丸一年(toto anno)よりも長くない(non longior)なら、
あなたに(tibi)私が(ego)とサルディニアの草(sardoniis herbis)よりも苦く、ハリエニシダ(rusco)よりも恐ろしく(horridior)、打ち上げられた海草(projecta_ alga_)よりも価値が少ない(vilior
途中つたない部分が混ざっていますが、よろしくお願いいたします–;
昨晩は代講をごくろうさまでした。では、前半のコメントからさせていただきます。
>牧歌7歌21-44
>
>Corydon
>
>Nymphae, noster amor, Libethrides, aut mihi carmen,
>ニンフらよ、我が愛しい人よ、リベトルスの娘(ムーサ)らよ、いざ私に歌を、
noster は1人称複数ですが訳されたように単数とみなすことができます。一方この同じ行と次の行には mihi, meo と二つの1人称単数の表現がみられます。このような使い分け?を意識して訳すべきかどうか、ちょっと気になりました。小川訳でも noster は単数として訳されています。ただ、韻律上 meus だとうまくいきませんね。おためしください。上の表現だと<ノ>ステラ<モ>ルとなります。(<>にアクセント。)meus amor だと、<メウ>サモ<リー>?となり、短いはずの Li- を長くしないといけなくなります。つまり、いわゆる metri causa (韻律上の理由)というものかと思います。
>quale meo Codro, concedite (proxima Phoebi
>私にも(meo)コドルスのように(quale Cordo)、授けよ(concedite)、ポエブスに次ぐ歌を(proxima phoebi)
Codro は与格となり、mihi とパラレルになります。つまり、quale meo Codro は、わがコドルスに授けたようなもの(歌)、となり、carmen の説明となります。「コドルスに授けたような歌を私にも(mihi)授けたまえ。」という訳になります。また、proxima Phoebi は次の行の facit の目的語とみなします。ブランケット()の位置にご注意ください。
>uersibus ille facit), aut, si non possumus omnes,
>交代で(versibus)彼コドルスは作ったが、しかしもし我々全員が(omnes)そうできないのなら、
彼は(ille)詩句によって(uersibus < uersus)ポエブスにもっとも近い歌を作る。
(コドルスの詩がすぐれているといっているわけですね。)
>omnesすべての歌を?でしょうか。
古いロウブでは omne となっていますので、omne carmen (すべての歌を)と考える可能性もあるようです。ここは部分否定になるので「われわれがすべての歌を歌えるとは限らないなら」となりますが、上で訳されたように omnes を主格補語として解釈するのが今の主流のようです。
>hic arguta sacra pendebit fistula pinu.
>ここで(hic)、心地よい音がする笛を(arguta fistula)松に(pinu)彼は(我らは?)ぶら下げるだろう(pendebit)。
arguta fistula が sacra…pinu からぶら下がるだろう、となります。pendo は自動詞です。ここは要するに、自分にコドルスのような優れた詩がかけないなら、筆を折るといいますか、笛を放棄する(木にぶら下げる)と宣言し、自分の詩に書ける並々ならぬ熱意を明らかにしているわけです。
続きのコメントです。昨日はここまで進みました。
>Thyrsis
>
>Pastores, hedera nascentem ornate poetam, 25
>牧人らよ、きづたを(hedera_)成長している詩人に(nascentem poetam)かぶせよ(ornate)、
直訳すると「きづたによって・・・詩人を飾れ」となります。
>Arcades, inuidia rumpantur ut ilia Codro;
>アルカディア人らよ、嫉妬深いコドルスによって(invidia_ Codro)内臓が(ilia)破られるがよい(rumpantur.sub.)
>
> utが分かりませんでした・・・。
目的文を導きます。「・・・するために ornate (飾れ)。」
inuidia (嫉妬)によってコドルスの内臓が破壊されるように。
自分が詩人として賞賛を浴びるように ornate してくださいと願い、その目的として、自分をコドルス(コリュドンは前の詩句でコドルスの詩作を評価していましたね)がねたむように、と言っています。
>aut, si ultra placitum laudarit, baccare frontem
>しかし、もし誉められた者を(placitum)過度に(ultra_)彼が賞賛したなら(laudarit)、バックスの草で(baccare)額を(frontem)
ultra placitum は熟語で「適切なレベルを超えて=過度に」となります。
>cingite, ne uati noceat mala lingua futuro.
>巻け(cingite)、悪い舌が(mala lingua)未来の詩人を(vati futuro)傷つけませんように(ne noceat)。
バッカルは魔よけの薬草で実態は不明だそうです。ここでは、やがてコドルスは自分をたたえるようになるが、それが神のねたみをうけるほどになるので(→人をほめすぎると神のねたみを受けるという当時の考えに基づく)、自分は魔よけのバッカルで額を巻くことが必要になるだろう、と傲慢なことをわざと言って見せています。
>Corydon
>
>Saetosi caput hoc apri tibi, Delia, paruos
>剛毛の猪の(saetosi apri)この頭を(hoc caput)汝ディアナよ、
>
>et ramosa Micon uiuacis cornua cerui. 30
>それと長生きした鹿の(vivacis cervi)小さな枝状の角を(parvos ramosa cornua)ミュコンは(捧げる)。
動詞の省略は解釈されたとおりです。
paruos は paruus の間違いだと思います。OCTで読みを確認しました。
paruus としますと Micon にかけることができます。「小さい(若い)ミコンが(捧げる)」
>Si proprium hoc fuerit, leui de marmore tota
>もしも続いて、このようなことが(hoc)あったなら(fuerit)、滑らかな大理石で(de levi marmore)
proprium は「自分のもの」という意味になります。「もしこのこと(願い)が自分のものとなれば(成就すれば)」と解釈できます。
>puniceo stabis suras euincta coturno.
>紫の靴で(puniceo coturno)ふくらはぎを(suras)縛られた(evincta)像として(tota)君は立つだろう(stabis)。
tota は「全体の」という意味ですから、「あなたは滑らかな大理石でできた全身像として(tota)たつことになろう。」と考えられます。
お礼にあなたの大理石の像をたてよう、と言っています。次のテュルシスはこの「大理石の像」というモチーフに目をつけています。
>Thyrsis
>
>Sinum lactis et haec te liba, Priape, quotannis
>乳の(lactis)広い杯を(sinum)、そしてこれらのケーキを(haec liba)、プリアープスよ、毎年
>
>exspectare sat est: custos es pauperis horti.
>凝視することが(exspectare)十分ある(sat est)。貧相な庭の(pauperis horti)番人(custos)だ、君は。
te (あなたが)expectare (期待することは) sat est (じゅうぶんである)。
妙な日本語になりますが、これらの捧げものを毎年期待するだけしかできないだろう、と言っています。次の pauperis に見られる貧しさのモチーフにつながる表現です。
>Nunc te marmoreum pro tempore fecimus; at tu, 35
>今大理石の君を、こめかみの前で、われらは作った。しかし君よ、
pro tempore は熟語で「状況に応じて」。「貧しさという状況に応じる形で」となります。つまり、コリュドンが大理石で像を作ろうと言ったのにたいし、自分も大理石で像をつくろうとテュルシスは応じるわけですが、それは「間に合わせ」に過ぎないのだ、と。いずれはもっと立派な(=コリュドンが作る像以上の価値を持つ)像を作る予定があるといいます。
>si fetura gregem suppleuerit, aureus esto.
>もし子孫が(fetura)群を(gregem)はちきれんばかりにするなら(suppleverit)、君は黄金であるだろう。
今はごらんのように貧しいけれども、いずれ豊かになれば、あなたを黄金で飾りましょう、というわけです。
37-44
>Corydon
>
>Nerine Galatea, thymo mihi dulcior Hyblae,
>ネレウスの娘ガラテアよ、(あなたは)私にとって(mihi)ヒュブラの(Hybrae)タイム(thymo)より甘く(dulcior)、
>
>candidior cycnis, hedera formosior alba,
>白鳥(cycnis)よりも白く(candidior)、白いきづた(の花)(hedera alba)よりも麗しい(formosior)。
訳されたとおりです。美しい表現ですね。
>cum primum pasti repetent praesepia tauri,
>育てられた牡牛たちが(pasti tauri)はじめてpraesepia(saepia)へ引き返す(repetent)とき(cum)、
pasti は pasco の完了分詞ですが、受動の形で能動の意味をもつ表現となるようです。よって、「牡牛たちが草を食み」でよいでしょう。praesepia は「小屋」の意味です。cum primum は英語で言う as soon as と同じ意味です。
>si qua tui Corydonis habet te cura, uenito. 40
>もしこのコリュドンに対する(Corydonis)何らかの心配が(qua cura)あなたを(te)掴んでいるのなら(habet)、いつか来てください(venito)、
cura はこの文脈では「愛」でよいでしょう。最後の venito について、「いつか」は不要です。というか「今すぐ」のニュアンスが含まれています。「今すぐ来てほしい」となります。cum primum の従属文に対する主文になります。
>Thyrsis
>
>Immo ego Sardoniis uidear tibi amarior herbis
>horridior rusco, proiecta uilior alga,
>si mihi non haec lux toto iam longior anno est.
>もし(si)私にとって(mihi)今の(iam)この一日が(haec lux)丸一年(toto anno)よりも長くない(non longior)なら、
訳されたとおりです。
>あなたに(tibi)私が(ego)とサルディニアの草(sardoniis herbis)よりも苦く、ハリエニシダ(rusco)よりも恐ろしく(horridior)、打ち上げられた海草(projecta_ alga_)よりも価値が少ない(vilior)
horridior は「とげとげしい」というニュアンスを持ちます。
videar は「・・・苦く、・・・とげとげしく、・・・価値が少ないと見られてもよい。」という決意を表す意味での接続法です。
>Ite domum pasti, si quis pudor, ite, iuuenci.
>行け、家へ(domum)育てられた仔牛らよ(pasti iuvenci)、行け、もし(si)何らかの恥が(quis pudor)(あるなら)。
pasti は上で述べたように「草を食べた(仔牛らよ)」。