タイトルのフレーズは「カタツムリの速度で動く」と続きます。マハトマ・ガンジーの言葉です。ゆっくり着実に進むカタツムリを見ているといろいろなことを考えさせられます。一茶は「かたつぶりそろそろ登れ富士の山」と詠みました。諸説ありますが、カタツムリの時速は人間のおよそ1000分の1だそうです。カタツムリの「速度」でも、「時間」を味方につければ富士山登頂は計算上可能です(そんなカタツムリはいませんが)。これに関連し、「塵も積もれば山となる」や「点滴巌もうがつ」といった格言を思い浮かべることもできます。
たしかに「距離=速度×時間」の公式を用いれば、何だってできそうな気になってきます。ただし、「速度」をゼロにしない限りは。「三日坊主」という言葉があるように、人間にとってこの速度を一定に保つことはじつに難しいことです。勉強の成果は、この公式といかにつきあうかにかかっている、と言い換えることもできます。一定の成果を上げるのに、細く長くいくのか、一気呵成にいくのか。もとより正解はありません。ただ「努力は裏切らない」ということは、この公式から導ける真実だと思います。
しかし、と思うのです。人生の諸問題はこの単純な「速度の公式」だけで解決できるものではないのだ、と。こう言うと「そんなことはわかっている」と誰もが言いますが、私は一歩進めて、この公式が人間の根深い先入観を形成している事実に目を向けたいと思います。
たとえば「子どもは大人の父である」というワーズワースの言葉があります。「年齢を重ねるほど人間は大人になっていく」というのは私たちの「常識」ですが、その考え方がすべてではないことをこの言葉は教えてくれます。たしかに経験の多寡で言えば、年を重ねるほど経験の絶対量は「多い」ということになります。これは「速度」の公式から簡単に導ける事実です。では、経験の「質」はどうでしょう。質と言ってあいまいなら、「心のときめき」や「感動」はどうでしょうか。幼児に軍配が上がるとしたら、これはどういうことでしょうか。
現実的な例をあげます。学校のクラス担任に関して、経験年数の多い少ないが「指導の質」とどう関わるのか、という問題はよく耳にします。私は「経験」×「年数」の結果がすべてを決定するものではないと考えます。このことは子どもを育てた母親なら誰もが知っている事実です(しかし忘れます)。たとえば三人の子どもがいるとします。母親の「経験」×「年数」の計算で言えば、3人目の子どもは1人目の子どもより条件的に「有利」ということになりますが、本当にそうなのでしょうか。むろん有利も不利もありません。単純な「速度の公式」を超越したところに大切な「何か」があると思われるからです。
「速度の公式」はカタツムリにも適用できますが、人間にあってカタツムリにないもの、それは夢や理想を見る力です。この心の輝きが情熱となって人間を富士登山にも駆り立てるのです。実際、人間以外の動物で「登山」する生き物はいるでしょうか。世の中には様々な人間がいます。様々な人間に様々な夢があり、それが人間社会を形作っています。誰にもその人なりの「富士山」がそびえ立ち、その登頂を志す自由があります。この志に老若男女は関係ありません。
先に示唆したように、子どもを立派に育てたいという思いは、学校の先生であれ、子育てをするお母さんであれ、経験年数とは別次元の問題だということです。同じ原理で、学校教育の現場で、教える者が学ぶ者を尊敬することがありえますし、家庭でも、親が子から学ぶケースはいくらでもあるわけです。
このように考えた上で、再びガンジーの言葉に戻ります。ガンジーの言葉の主語は何であったか。「善きこと」とあります。何が善きことであり、尊ぶべきことなのでしょうか。先に「理想」や「志」という言葉を使いました。確かにある時点で「志」の輝きを比べれば、大人も子どもも違いはないということは言えるかもしれません。しかし、子どもになくて大人に<あるはずのもの>、それは何でしょうか。私は「理想を見失うことなくひたむきに努力を重ねる年月の蓄積」だと考えます。
この<あるはずのもの>が本当に自分の中にあると言えるかどうか、その自省を促す点でガンジーの言葉には深い含蓄があります。子どもは子どもの父(導き手)にはなれません。真摯に努力する大人にとって、手本やヒントになることはあったとしても。現実社会で、一歩一歩夢や理想(「善きこと」)に向かって歩み続ける大人の姿こそ、同じく理想を追求する(可能性を持つ)子どもの真の導き手となるのです。たとえ、その歩みが遅々としてカタツムリの速度と揶揄されるにせよ。
(2009.6)