山下太郎
『論語』に「学びて思わざれば即ち罔し。思いて学ばざれば即ち殆し」という言葉があります。知識を丁寧に学ぶことも、それを用いて自分の思索の世界を深めることも、ともに大切です。知識の習得は、スポーツの練習同様「繰り返し」取り組むことで「できる」ことが増え、自信がわいてきます。暗記や暗唱、徹底した問題演習はしんどいことのようですが、コツがわかると「楽しい」ことに変わります。
一方、「考える」力はどうすれば身につくのでしょうか。この問いに簡単に答えることは出来ませんが、知識が増えると考える力も増していく、とは限らない点が興味深く思われます。現京大総長によれば、「今の学生は伸びきったゴム」なのだそうです(「文藝春秋」2010年2月号)。個々に反論の余地はあると思いますが、教授陣の目から見て、今の学生は総体に考える力が脆弱であるとみなされていることは憂慮すべきことです。
ゴムが「考える力」や「好奇心」を意味するとして、その弾力を強化するには必ずしも暗記や問題演習が有効とは限りません。むしろ阻害する可能性も考慮すべきです。知識や解法を暗記すると一時的に点数が伸びます。点数が伸びることは素晴らしいことですが、それだけを目的にすると、得点に結びつかない取り組みの一切を「無駄なもの」として遠ざける傾向が出てきます。その結果好奇心が弱まり、考える力もねばりを失います。
好奇心を守るにはあえて「無駄なもの」に目を向ける必要があります。とりわけ「遊び」と「読書」に注目したいと思います。数値にして比較できませんが、子どもたちの「遊び」や「読書」の体験は、年々減少傾向にあるのではないでしょうか。
一見「学び」に直結しない「遊び」の体験は感受性や知的好奇心を刺激します。「山の学校」の小学生の取り組みは、科目を問わず「遊び」の要素がふんだんに盛り込まれていますが、その狙いの一つは、仲間意識を育て、考える力の基礎を育てることにあります。
一方、「読書」についても、感受性と思考力を磨く上でこの上なく有効です。ただし、気晴らしに読むのでなく、問題意識を高めるには、読み書きの正確な訓練が不可欠です(今の日本の教育ではこの訓練が致命的に欠如しています)。「山の学校」の中学・高校生の「ことば」のクラスを例にとると、一冊の本を最初から最後まで読み切ります(古典と呼ばれる作品やプラトンやアリストテレスの哲学書も含みます)。内容を正確に理解するため、本の内容についてクラスで意見を交わし、各自で論点を見つけた後は、自分の考えを文章にまとめます。講師がそれを丁寧に添削するのは言うまでもありません。
時代がどのように変化しても「本当に大切なもの」は変わりません。人が生涯にわたり自ら学び、自ら考えるために、私たちはこれからも「考えること、学ぶこと」の基本を見つめ続けたいと思います。