山下太郎

今の教育はどこかおかしいのではなく、もはや狂っていると言った方がよいのではないか(私たちが目を覚ますという意味で)。学ぶ者(本来教える者も学ぶ者のはずだが)は、真の学びの喜びを味わうことなく、試験のため、受験のためにせわしなく学びを強制されているだけではないだろうか。私は勿論自分の言葉が言い過ぎであることを心から願う者である。むしろ「試験のために勉強する」というフレーズをここで取り上げ、この言葉のもつ意味を一度徹底して反省する時期がきていることを強く主張したいと思うばかりだ。

教師は一度胸に問うてほしい、「この子たちは試験がなくても私の話を聞いてくれるだろうか」と。学ぶ者は知識だけでなく、先生の「生の言葉」を聞きたいと願っているのではないだろうか。一方、試験をなくしたら、どうやって評価するのだ?という声が聞こえてきそうだが、この疑問をもつ者にこそ、前ページの私のエッセイを熟読してほしい。学ぶ者は一体何を真の動機として勉強に励むのか、この一文からくみ取ってほしい。このエッセイは「私の」物語ではない。一昔前の大学ではごく日常的なエピソードにすぎないと私は信じるからである。そしてジャンルを問わず、学校を問わず、大学で真摯に学ぶ者の心には、今もこの熱い「学びの魂」が宿っているはずだ。

つまりこの「学びの魂」に火をつけるのは人間であって試験ではないと私は主張しているわけである。かりに大学での学びが本来そのようなものであるならば ──実はギリシアにさかのぼる教育の伝統に照らせばそうなのであるが──、そして一方では学校教育が目標として大学進学を視野に入れるのであるならば、この「学びの魂」の準備こそ最重要課題のはずであるが、実態はどうであろうか。

私は決して「学びの魂」か「試験」かといった単純な二者択一の議論をしたいわけではない。人間は裸でも人間だが服を着て生活をしないといけない。しかし服や身なりがその人の本質を表すものではない。私はうわべではなく、人間の魂の輝きを映す目そのものを見つめよと主張しているのである。教育において最も大切なものは、数値に変換可能な統計データでは断じてない。

しかし現実はどうだろう。私たちの「常識」に照らしたとき、「試験のない学校は考えられない」と多くの人が口にするのではないだろうか。私の考えは逆である。「学びの魂」を欠いた学校は考えられないばかりか、さらにつけ加えて言えば、「個を見つめるまなざし」を欠いた学校は考えられないのである。

以上述べてきたことは、「幼児教育」という生命の輝きそのものの幼児たちと日々接する経験がお前にそう言わせるのだ、と人は言うかもしれない。だが、それは「半分本当で、半分ちがう」と私は言いたい。なぜなら、小学校以上の教育においても「個を見つめるまなざし」が「学びの魂」を育てる本質であることを私は確信するからである。

というのも、ここに「山の学校」の5 年の実績というものがあるからだ。それは、冒頭来提示してきた「試験のない学校において学びの魂を育てることは可能か?」という問いへの何より明白な答えである。どうか、今回の(願わくばバックナンバーも含めた全ての)「山びこ通信」をすみずみまでご一読いただきたい。どの講師のどのクラスも、私の目には「学びの魂」の輝きが満ちあふれて見えるのである。

今、「山の学校」は子どもたちだけでなく、大学生や社会人も集う「学びの場」となっている。本物の学びの前に、立場や年齢等の違いは一切ない。一日の仕事を終えた社会人が、ラテン語の辞書と格闘しながらキケローに挑戦する姿は、「ことば」のクラスで大きい広辞苑を一生懸命引きながらテキストを読む小学生、さらには幼稚園で虫採りに夢中になる幼児と全く同じように光り輝いて私の目には映る。

この万人が平等に授かった「聖なる好奇心の輝き」を教育は何より大切な宝として尊重し、育てていかねばならない! 「山の学校」はそう強く信じ、5 年前に船出した。当初は、この信じる気持ちだけが先走っていたといえるかもしれない。しかし、何かにつき動かされるようにひたすら私たちは船をこいできた。たかが5 年、されど5 年。この5 年間の歩みは決して小さなものではなかったはずだ。この5 年間をふり返った私の率直な思いをつづると、それは「感謝」の二文字に集約される。一つは、何より私たちの活動を信頼し、応援してきて下さった数多くの会員ならびにご家族の皆様への言い尽くせぬ感謝の念。もう一つは、「山の学校」の理念に共鳴し、我こそは! と飛び込んで来てくれた、そして一緒に汗を流し船をこいできた若き先生たちへの感謝の気持ち。

さて、今私がこうして過去をふり返るには、それなりの理由がある。私はこれまで20 年以上にわたり、様々な場所で様々な形で「教師」の仕事を続けてきたわけだが、現場で「教える」仕事は今学期限りとし、四月からはオブザーバーの立場として「山の学校」の活動を後方支援していきたい(ちょうど幼稚園における園長の立場のように)。

この決意の背景には、若い先生たちの活躍がある。それぞれのクラスで見事に「山の学校」の理念を生かした「学びの場」を実現していることを思い、私は安んじて彼らの夢と情熱に希望を託すことができる。私のポジションを若い世代に委ねることにより、今後益々多くの情熱溢れる先生たちが、「山の学校」でそれぞれの個性を生かした「学びの場」を創造してくれることだろう。私はこの流れを大事にしたい。

事実、私が手がけてきた古典教育(ラテン語)については、この四月より京大西洋古典教室より若き俊英がラテン語のみならずギリシア語も教えてくれることになった。同じくこの四月からは古文及び漢文のクラスも開設される運びである。私はこの新クラスの方向づけを熱く語る先生の言葉から、かつて大学時代に経験した「読書会」(学生が自主的にテキストを選び、切磋琢磨しながら読み合わせを重ねる)を連想した次第である。まさに「山の学校」ならではのクラスが今産声を上げようとしている。また一方では、この四月から「山の学校」の卒業生が、はじめて先生となって子どもたちを指導するといううれしい展開もある。

こうして「山の学校」はこれまでの5 年間の挑戦を土台とし、四月からよりパワーアップした形で「新たなる挑戦」を続けていくことになる。私は、今後今まで以上に自らの心の目を開き、こどもたち一人一人の魂の輝きを見つめ続け、真摯に学ぶ者たちの「学びの魂」を励ますとともに、夢を共にする若き先生たちを力一杯応援していきたい。皆様、今までありがとうございました。そしてこれからもよろしくお願いいたします!
(2008.3)