(山びこ通信2011年2月号より抜粋)
『つくる』~遊びと学びの接点、「ゲームよりも面白い!」と言える『つくる』クラスを作りたい
(月曜日16:30~18:00(隔週) 講師:福西亮馬 対象:小学生)
『つくる』はいわゆる工作教室です。そのねらいとは何か?──それは「こうしたらもっとできるかも!」という、小学生たちの「夢」を応援したいということです。夢とは「自分からしたい」と思って「ワクワクできるもの」のことです。ひいてはそれが「知りたい」「学びたい」ということに根を下ろしていき、「勉強すればもっとワクワクできるはずだ!」という学びそのものへの意識の変化にもつながると考えています。
そこで私が注目したいのは、小学生ならば誰もがおなじみの「がらくた集め」です。何かを作ることに没頭する子どもたちはきっと多くいるはずですが、「しぶしぶ勉強をがんばった、だからあとはゲーム」というような「片手間な勉強」をするくらいなら、ゲームよりも面白いがらくたを相手に「最初から最後まで」夢中になれた方が、本当の勉強につながっているのではないか、というのが私の提案です。
よく親御さんからの相談に、「この子は勉強の仕方が分かっていないようなので…」というのがあります。それは「いかにそれまで遊んで来なかったか」ということの告白でもあります。勉強で遊ぶことを知っている人にとって、「どうやって勉強するか」とは「どうやって遊ぼうか」という意味になります。
たとえばノートの取り方一つにしても、興味に従って調べていけば自然とノートは埋まっていきます。そしてその書き方がいくらでも自分でアレンジできることを知って、むしろ「次は何を書き込もうか」と楽しくなります。それは黒板に書かれた分だけを単に写している人には味わうことのできないワクワクした広がりです。このように、「自分で考えて工夫できる人」は、勉強の仕方を知っていることになります。
その根っこにあるのは、「次にどうなるか知りたい」という好奇心です。ところで「勉強の仕方が分からない」という人の中には、その仕方を単に「要領よくすること」と履き違えている人が割合に多くいます。そうではなく、要領とは試行錯誤の後にやっと生み出される「コツ」のことです。それは、もし人から聞いたところで自分で工夫を重ねようという主体性がない限り、一向に身に着くものではありません。またそれを得る前の試行錯誤を恐れているから、「分からない」で済まし
ているのです。
勉強とは本来受身でするものではありません。知りたいと思う気持ちが湧いてくるからこそおのずとするものであり、そこで知らなくてもいいと思えばそれまでです。またその過程は、はたから見れば「道草」としか映らないこともしばしばあります。しかしそれは「真剣」な道草であり、試行錯誤であり、工夫の道のりです。それを「とことん」突き詰めていけば、必ずや困難にぶち当たる日が来ます。その時こそ、たとえ誰に言われなくても自分でそれを克服したいというモティベーションの湧いて来る時です。我々はそうした彼らの主体性こそを見守るべきではないでしょうか。
「よく遊び、よく学べ」とは昔からよく言われることですが、決して「よく学び、よく遊べ」という順ではないことに注意したいと
思います。つまり「勉強したから遊んでいいよ」というのでは、上の意味で本当の勉強をしたことにはなりません。本人自身が「遊びも勉強も!」というのでなくてはなりません。
英語のことわざにAll work and no play makes a Jack a dull boy.というのがあります。私はこのJack とはまさに正反対の、自分で絶えずモティベーションを作り続けられる人を応援したいと思います。
一人でも多くのご参加をお待ちしています。
(『宝の山』はただ黙して語らず。君たちの挑戦を待っているのだ)