「本を読み切る」ということ

福西です。

勉強の元手(もとで)になるものは何かなと、折につけ考えることがあります。

たとえば、中学高校のときに、私の背中を押してくれたものは、なんだったのかなと。

そこで、ふと脳裏をよぎったのが、『関ケ原』(司馬遼太郎、新潮文庫)を読み切ったことです。小学6年生のときでした。

読むきっかけは、一歳年下の弟が、吉川英治の本を読んでいたことでした。それに対するライバル心からでした。

『関ケ原』は、石田三成と、その軍師の島左近を軸に描かれた物語です。それを父の本棚からこっそり抜き出して、(よし、これをだれにも知られないうちに読んでやろう。まだ弟は読んでいないはずだから)と、冒険心を奮い起こしたのでした。

自分で始めたことなので、終わりを与えるのも自分です。なので、どこで終わってもいいのですが、どうせなら読み切ってやろう、と自分で決めました。

漢字は前後関係で推測して読めるのですが、情景の浮かばない箇所では、しばしば難儀しました。けれども、上巻を読み終えた時にはもう中巻が楽しみになっていました。中巻を読み終えると、「おお、いよいよ下巻だ」とドキドキしました。そして下巻も読み終えたとき、何とも言えない達成感をおぼえました。

「過ぎ去った苦労は快い」といいますが、まさにそれでした。

三成を最後まで贔屓して応援していました。関ケ原の戦いのあと、生米で腹を下しながら近江を逃亡したこと。つかまって、差し出された柿を「痰の毒だから」と言って食べなかったというエピソード。その三成の無念を思うと、またページを戻り、三成の生きているとき、どこでどの選択肢をとれば、逆転が起こっただろうと思いながら、読み返したものでした。そして小早川が裏切り、左近が死に、大谷刑部が散った、合戦のくだりをまた読んで、「ああ」とため息をついたのでした。

その読書体験のあと、「いつでも、この本とともにある」という思いを得ました。そして、中学生に上がった私を、軍師島左近のように助けてくれたものでした。

『関ケ原』で興味を持ち、戦国時代のいろいろな合戦について調べたことから、調べる(ために活字を読む)こと自体が好きになりました。すると、歴史以外の科目でも、その延長だと思えることが増えました。

いわゆる「ハンカチの法則」です。ハンカチの真ん中を持ち上げると、まわりの部分もそれにつられて高くなります。そのように、何か一つのことをやりぬくと、それに付随して他のことも上達することがあります。それです。

私にとっては、「この本を読み切るぞ」という内的な体験が、「他のこともこの要領でやり切ればいいんだな」という、コツを覚えた出来事であり、勉強というハンカチの「中心を持ち上げること」だったのかな、と思い返した次第です。

というわけで、私からおすすめしたいクラスがあります。

「ことば」(小学生)

「西洋の児童文学を読む」A(中学・高校生)

「西洋の児童文学を読む」B(中学・高校生)

「歴史」(中学・高校生)

これらのクラスでは、(上記の私の体験にはいなかった)最良の指南役がおられます。ぜひ若いころに「読み切った」(それを共有した)体験をされることを、オススメします。