山下太郎
激動する世の中の変化に呼応する形で、よりよい教育を求める議論が年々声高に聞こえてきます。しかし、文部省主導で何か目覚ましい変革が起こることを期待するのでは、いつまでたっても、靴の上から掻くようなもどかしさを感じます。
私は、今すぐ誰にでもできる、教育をよくする道があると思います。その第一歩は、各自が――老いも若きも――「自分をよりよく変えていこう!」とする「学び」の決意をもつことです。かねてから申していますとおり、受験勉強偏重は、合格と共に「学び」がストップする弊害が懸念されます。しかし、それを批判する大人も――むろんこの私も含めて――、忙しさを口実として「学び」を停滞させているおそれがないでしょうか。
言うまでもなく、「学び」は教室の中だけにとどまるものではありません。教科の学習だけがその対象になるのでもありません。大学の創始者プラトンは、「善く生きる」ことの意味を終生問い続けました。生きる意味を様々な形で「学び」、それを咀嚼した上で自ら考えることの大切さは、生涯変わらぬもののはずです。この努力を停滞させるなら、無意識のうちにも他人の意見をうのみにし、「比較」の中でしか己の価値を見出せない――裏返せば自分には価値がないと卑下してしまう――悲劇もおこりえます。言い換えますと、「みんなが・・・するから自分も・・・する(しなければならない)」と考える癖がつくと、自分の生きる意味を見出せなくなります。
私が上で述べた「学びの決意」とは、「(他人はどう言おうと)自分はこうしたい、こう生きたい」という強い決意をもつことが前提になります。その強い思いがあれば、どのような困難にも耐えて知識を獲得することができるのです。さらには、自分を高みに導く書物や人との対話も、すべてが乾いた砂地に水がしみこむように、ぐんぐんと吸収され、自らの成長の糧となるのです。
このような「学び」の意識をもつ者同士は、年齢に関係なく、互いによい影響を与え合い、切磋琢磨できるのだと思います。逆に、師弟においても、親子においても、友人の間においても、誰かが「学び」の気持ちを放棄したら、そこによい関係は結べません。人として生まれ、自らを「理想」に近づける努力の一歩一歩。誰に命令されるわけでなく、強いて言えば、自分で自分に命令することによって進んでいく、そのような自立的な生き方に、老いも若きも区別はありません。
たとえ本人は暗中模索の日々であっても、努力する真摯な姿勢とその実践は他者に勇気と希望を与えます。つまり「学びは己のためならず」ということです。「努力の社会化」と言い換えてもよいと思います。個々の努力は目に見えない糸でしっかりつながっているのです。
誰もが人生という山道の登山者であり、それは椅子取りゲームとは本質的に違います。山道を行き交う人が自然に声を掛け合い、山頂を目指すように、私たちは、一歩一歩目の前の道を登っていきたいと思います。すでに先人のつけてくれた山道、さらには山そのものの存在に感謝しつつ。
(2008.3)