「君子は器ならず」──教育とは人間を育てること

「君子は器ならず」──教育とは人間を育てること

山の学校代表 山下太郎

『論語』に「君子は器(き)ならず」という言葉があります。「君子(くんし)」とは立派な人という意味であり、人として目指すべき理想の姿を指します。その対極にあるのが「小人(しょうじん)」であり、これは人としての成長をおろそかにすると、誰もが陥ってしまうあり方です。誰もが努力次第で君子になれますが、油断すれば小人のままでいることもありえます。

「君子は器ではない」とはどういう意味でしょうか。「器」とは、単なる道具や手段のことを指します。私は常々、教育の目的は「人材」育成ではなく「人間」を育てることにあると考えています。今の言葉で言えば、孔子の「器」とは、特定のスキルや役割を果たすための存在、すなわち「人材」に相当すると言えるでしょう。『論語』の言葉は、現代の教育方針を見直す視点を与えてくれます。

なぜ「人材」では不十分なのでしょうか。近年、国は「かせげる大学を目指す」という方針を示しました。しかし、かせぐのは産業界の目標であり、大学の本来の目標ではないはずです。「大学は人材育成を担うのでは?」という意見もあるでしょう。ここで、大学の起源であるプラトンの考えに耳を傾けると、大学の本質は「真理の探究」にあることがわかります。実際、多くの大学がスクールモットーとして「VERITAS(真理)」を掲げています。

「真理の探究」と聞くと大げさに思えるかもしれません。しかし、子どもたちの探究心は、自然や言葉の世界に対して純粋に輝いています。もし、その輝きがいつしか失われ、ただ言われたことをこなすだけになってしまうとしたら、これほど悲しいことはありません。

近年の教育はますます「人材育成」に偏っています。これは、子どもたちの学校生活における苦しみを生む一因ではないでしょうか。企業の製品管理において数値基準が不可欠なように、教育現場でも数値指標が重視され、成績や評価の比較検討が過熱しています。その結果、学びが単なる競争に結び付けられ、本来の楽しさから遠ざけられているように思われます。

では、教育とは本来どうあるべきなのでしょうか。そのヒントとなる言葉を、数学者・岡潔氏が残しています。

「私は義務教育では何をおいても、同級生を友だちと思えるように教えてほしい。同級生を敵だと思うことが醜い生存競争であり、それがどれほど悪いことであるか、そして一度そのような癖をつけてしまうと直すのが困難であることを、見落としていると思います。」(岡潔『人間の建設』)

このような考えを甘いと思う人がいるかもしれません。「世の中を生き抜くには競争が不可欠だ」と。しかし、本当の強さとは他人との比較・競争に一喜一憂することではなく、自ら定めた高い理想に向かって一歩ずつ進んでいく過程に見出せるのではないでしょうか。子どもたちは、大人以上に「真・善・美」に対して敏感であり、純粋な心で高邁な理想を求めています。子どもたちを導く大人がその心に敬意を払い、その学びの歩みを大切に見守ることこそ、本来の教育の基本的姿勢ではないかと思います。

北白川幼稚園は、子どもたちが豊かな感受性を育み、自立した「人」として成長できるよう、今から75年前に設立されました。その理念は、「山の学校」にも受け継がれています。子どもたちの未来を守るために、そして何よりも、私たち大人が「人」として誇りを持って生きるために、「君子は器ならず」の言葉を今一度、深く胸に刻みたいと思います。(山下太郎)