「山びこ通信」(2022.2月発行)より巻頭文をご紹介致します。
希望と不安の中で 今を生きること
山の学校代表 山下太郎
ローマの哲人セネカは「希望のあとを不安が追いかける」という趣旨の言葉を残しました。「こうなればいいな」という願望は、「こうなったら困る」という不安と紙一重であり、何かを期待する心は、それが手に入らない未来への不安と恐れを招きかねません。
恐れは望みのうしろについてくる。そのような歩みに不思議はない。どちらも心がどっちつかず、つまり、未来に何が起きるか不安なために生じるのだから。だが、どちらとも、最大の原因は私たちが現在の事態に適切な対応をせずに遠い未来の事態に思考を先走らせることにある。こうして、先見という人間に与えられた最大の恵みが災いへと転じてしまうことになる。(セネカ『倫理書簡集』5、高橋宏幸訳、岩波書店)
セネカは人間に与えられた「先見」という恵みが災いをなすという逆説を語っていますが、大人にとって、いまさら「先見」を捨てる生き方は選べません。未来を思い描く様々なイマジネーションの活動に小休止を与えるには、「今を生きる」意識を高めることでしょう。セネカに限らず、ローマの賢人たちは口をそろえて「今を生きよ」というメッセージを残しました。わが国の古典にも「一期一会」をはじめとした同趣旨の言葉をいくつも数えることができるでしょう。
「今を生きよ」と言われて、具体的にどのような生き方をイメージすればよいのでしょうか。私の場合、仕事柄、この言葉を聞くと、真っ先に一心不乱に遊ぶ幼児の姿を思い浮かべます。幼児の遊びは、これをやればほめられるとか、有利な立場に立てるといった、なんらかの利得を期待してなされる行為ではありません。大縄跳びで10回跳べた子は、誰に言われなくても10回以上を目指します。かりに跳んだ回数で成績評価が行われるなら、それは遊びでなく苦役に早変わりします。目指す回数が跳べればほっとし、跳べなければ歯を食いしばって練習するかもしれませんが、跳ぶ回数で他人と競わされると、大縄跳びはいっぺんで嫌になるでしょう。
この話題に関して、スティーブ・ジョブズ氏(アップル創業者)がスタンフォード大学の卒業式で行ったスピーチの言葉が思い出されます。同氏はスピーチのはじめに、「点と点をつなげるという話をしています。
「未来を見て、点と点を結ぶことはできない。過去を振り返ってそれらを結ぶことができるだけだ」。
この考えにならえば、希望とは結ぶことのできない点と点をつなぐ空しい試みにほかならず、冒頭で見たように不安がつきまとうのも当然だとわかります。我々は人生にドット(点)を打ち込むこと、すなわち、「今を生きる」ことに専念すべきであり、それには、本当にしたいことを見つけ、その仕事を愛し、誇りをもつことが何より大切だと言います。ジョブズ氏はさらに、「もし今日が人生最後の一日だとしたら、今日やろうとしていることを自分はやるだろうか」と毎日自問していることを打ち明けたうえ、次のように締めくくります。
「皆さんの時間は限られています。だから、誰か別の人間の人生を生きて時間を無駄にしてはいけません。ドグマに捕らわれてはいけません。それは別の人間が考えた結果に従って生きることと同じです。騒々しい他人の考えの押しつけの前に、皆さんの内なる声がかき消されてはなりません。何より大切なことは、自分の心と直感に従う勇気を持つことです。どういうわけか、心と直感は、自分が本当はどう生きたいのかをとっくに知っているのです。それ以外のことは何もかも二の次、三の次でよいのです」。
このメッセージに照らすとき、先に挙げた一心不乱に遊ぶ幼児の姿は、「内なる声」に忠実に生きるお手本だと受け取れるでしょう。ただし、幼児は自然体で「今を生きる」ことができるのに対し、学校に通う子どもたちや、社会で働く大人たちは、否が応でも「外の声」に従わざるを得ない日常があります。必ずしも「内なる声」か「外の声」か、といった二者択一で考える必要はないにせよ、この二十年間をふりかえると、年々「外の声」が強まるとともに、その声に従順に従う若者──指示されなければ自ら動かない若者──が増えている傾向を感じております(これは非常勤で大学で教える経験に基づいての感想です。これは若者批判ではなく、幼児でさえ「今を生きる」ことがしづらくなってしまった現状が若者にも波及していることを憂いています)。
じっさい、「今を生きよ」や「死を思え」といった古典作家の言葉や、ジョブズ氏の投げかけるメッセージは、人生の「定跡」──成功のノウハウ──を声高に訴える「外の声」(ドグマ)に比べると、依然つかみどころのない、ややもすれば頼りない考えのように受け取られるご時世かもしれません。しかし、「頼りある」考えにたけた人間の例として、日本昔話の「欲張りじいさん」をあげることができ、他方、「今を生きる」代表として、「正直爺さん」をあげることができるでしょう。目的意識の鮮明なのが前者で、後者にそのようなものはありません。しかし、その後どのような展開になったのかはみなさんご承知の通りです。
希望と不安の中で生きる意味を上のように考えるとき、私はあらためて学問や芸術の追及する真・善・美を思い、子どもたちの教育のあるべき姿を思い、「楽しく学べ」(Disce Libens)という「山の学校」の理念の意味を再確認する次第です。(山下 太郎)
拝読して感銘を受けました。なにかとても清々しい気持ちになりました。今の世の中で自分は何ができるのか、無力感しかありませんが、すべては自分から始まると信じて、まずは自分自身が常に「正直ばあさん」であることにたちもどり、楽しく学びたいと思います。誠にありがとうございました。
山下です。コメントを頂戴し感謝申し上げます。孔子の「徳孤ならず、必ず隣有り」という言葉を想起いたしました。真摯に学ぶことが平和の礎であると信じ、一歩一歩学び続けてまいりたいと存じます。どうぞよろしくお願いいたします。