山下 太郎
水曜日のクラスでは、昨年春からキケローの『老年について』(De Senectute)を読んでいます。もう全体の半分近くまで読んだ計算になります。授業は、大学の演習と同じスタイルで進めています。
最初に受講者がテキストの音読をし、その後に訳を発表してもらいます。その際、意訳はNGで、原文に密着した直訳を求めています。これによって、文法の理解度を正しく確認することができるからです。
キケローのこの作品は、人はいかに老いるべきか、いいかえれば、人は何を目指しいかに生きるべきか、という哲学の根本的な問題にふれています。毎回、ハッとさせられる表現やものの考え方に遭遇できるので、私も受講生のような気持ちで、わくわくしながら授業に臨んでいます。
…しかし、この人たちは、自分にはまったく関係のないことが分かっていることにせっせと励んでいるのである。
次の世代に役立つようにと木を植える
と、わが同胞スターティウスが『若い仲間』で述べているように。まことに、農夫なら、どれほど年老いていようが、誰のために植えるのか、と尋ねられたら、ためらわずこう答えるであろう、「不死なる神々のために。神々は、私がこれを先祖から受け継ぐのみならず、後の世に送り渡すようにとも望まれた」。
──キケロー『老年について』(中務哲郎訳)
一方、金曜日のクラスでは、昨年春からマルティアーリスの『寸鉄詩』(Epi gr ammata)を読んできました(テキストは大学書林のアンソロジー)。この本は昨年末で読了し、今年に入ってからは、ローマの哲人セネカの作品を読んでいます。タイトルは『幸福な生活について』(De Vita Beata)です。
授業の進め方は、キケローのクラスと同様です。哲学といっても、ごく平易な日常の言葉で書かれているため、内容的にも親しみがもてます。
(2005.7)