ドリル学習について

福西です。

私が思うに、数学を山や峰にたとえるなら、色々な登り方があって、一つは情緒という道があります。「色々な人のお世話になりながら、これまで自分の足でも登ってきた、だからこれからも一歩一歩登るんだ」という道です。

もう一つは理屈。「こうなって、ああなって、だからこうなって・・・」と、純粋に考えることを楽しむ道です。これは一番よく言及される、ある意味、王道です。

そして三つ目は直観。勘と経験を頼りに、「この先はこうなっているんじゃないか、ああなっているんじゃないか」という冒険心を持って歩く道です。

どちらかというと後の二つはセットのようなものです。理屈(論理的思考)には、目の前のブロックを一つずつ手にとって吟味し、カッチリと積み上げていくことで、あたかも構造物を作るような厳密さがあります。それゆえに美しくもあり、パワフルです。そして、それだけでもう「数学だ」と言ってしまえるような骨格、風格を備えていますが、実は案外、理屈だけでは見通しがつかずに行き詰ってしまうこともあります。そこを直観が助けてくれます。

一方、直観はというと、しばしば間違いを起こします。そこを理屈が助けてくれます。その時、理屈はむしろサブに回り、直観の正しさを(あるいは誤りを)、その飛び石のような飛躍を一歩ずつ検証する役となります。それなので、もし直観を主人公にすれば、数学とは、「より正しく直観できる」ようになるための営み、という見方もできます。

上の三つの他にも、まだまだあると思いますが、とりあえずそれだけを挙げておきます。

さて、後者の「理屈と直観で登る道」については、今号の「山びこ通信」(2013年6月発行予定)で触れようと考えていますので、ここでは前者の「情緒で登る道」について述べます。

メインとなるのは、ドリルの取り組みです。

ドリルの丸付けをしていると、よく「このやり方はお母さんが教えてくれた」という声を聞きます。次に「学校の先生が」と来て、最後に「自分で」と。「自分で」が一番いいのではないか? と思うかもしれませんが、私は、算数の基本に関しては、お母さんのそれが一番いいと思います。

ドリルを使ったトレーニングでは、筆算にせよ、四捨五入にせよ、「誰か」が親身になってその肉声で写し取ってくれたやり方を、そのまま子供も反復することが、一番すんなりと定着する仕方だと思います。ただし、ここで私が想定するドリルとは、「基本のやり方」の確認のためのものであり、そこに「自分流のやり方」が入る余地はあまりないものとします。

そして、もしその「誰かの声」というのがお母さんのものであり、それが子供にとって一番親しみのある、つまり好きな人の音色であることを認めるならば、「算数といえばお母さん」、「お母さんといえば好き」、だから「算数=好き」という式のイメージが子供の中にともります。その蓄積や定着こそが、長い目で数学が好きになるための、ドリルを使った取り組みの本当の狙いではないかと思うのです。

人のイメージあっての算数、それが「数は情緒」だと思うゆえんです。

それには説明の上手下手はさほど関係なく、あるとすれば音色です。そしてその音色から想起される、「算数」と聞いて真っ先に思い出されるのが「誰であるか」ということに比重があります。もちろん、お父さんやお兄さんがその役を務めてもいいですし、つまるところ、小学生から中学生にかけての算数とは、「誰に付いて見てもらったか」というやり取りの総体だと思います。

親御さんの言葉は、先生の(普通は多人数を相手にする)それとも違っていて、「自分に向けて発せられている」という意味で感謝となり、思い出の錦となります。教え方に理解とのギャップがあったとしても、たとえば文章題にxを使う方法を教えようとして、お子さんが「そんなの学校で習ってない!」と反発して苦い思い出になったとしても、それはそれでその子の内心に、「あの手この手で教えてもらったけど、どのみち自分で勉強しなくちゃならないんだ」という気持ちを起こさせます。長い目で見れば、結果的にプラスに転じます。

以下は蛇足ですが、念のため申し添えますと、どうしても教えることについ感情的になってしまうということであれば、以前の(それも2年以上前の)学年のドリルを強くお勧めします。そうすれば、ほめるきっかけの方が多くなるからです。これは何も目の前の問題から逃げているのではなくて、簡単なものから難しくしていくという手順の話です。

そして、一冊だけを。もしすでにお家に二冊以上買ってしまっている状態ならば、一冊だけを残して、他は仮に捨ててしまってもおつりが来るくらい、この「一冊」(ずつ)というルールは大事です。気が散ることがドリルにとっては一番大敵だからです。また二冊を同時にこなしても、一冊の時とそれほど達成感は変わりません。

そして、ある意味ドリル選びは、お母さんが「させたいもの」ではなく、お母さんが「まるをつけたいもの」でいいと思います。そこはあえて恣意的でいいと思います。「させたいもの」だと、結局お子さんがしない時の叱る原因ともなってしまうからです。お子さんに解かせたいものではなくて、お子さんと一緒にまるをつけたいものを、ぜひお探しになってみてはいかがでしょうか。

以上のような観点から、ドリル学習には、「誰がそばについてくれていたか」というイメージを定着させる「媒体」としての意義にも注目していいのではないかと思います。

算数と言わず、数学が好きになるのは、「いつ火が着くか」だと思います。そしてそのような時、いざ、馬力を出そうと思った時に、それがかなう、力の源となるものが、情緒です。そして、それは人のイメージをかたどった、それまでの思い出の錦です。

 

<参考記事>(過去の『山びこ通信』より)

・『かず小2・3年生』

『かず』

・『孟母』