青春ライブ授業(和田先生)

福西です。大変遅くなりましたが、2010年11月1日(月)に開かれた、青春ライブ授業のレポートです。
今回の講師は、和田浩先生でした。

 和田先生は、小学生の頃にカールルイスを憧れ、短距離種目を希望してクラブに入ったのですが、いざ蓋を開けてみると、1500mに振り分けられていたそうです。「おそらく粘り強い性格を買われたのだろうと思う」とのことでしたが、それでも不平を言わずに努力した小学生時代が、話の端々から伺われました。実際、学校では一番足が早かったそうです。
それで中学に上がると迷わず陸上部に入り、そのとき種目も当然のように1500mを希望するようになっていたということでした。

ところが、中学生になるとこれまでとは事情が一変してしまいます。自分ではまったく分からない理由で、どんどんタイムが落ちていき、しかも練習のウォーミングアップにさえついていくのもやっとという苦境に立たされてしまったのです。
その原因は、当日青春ライブに来た人にじかに話された内容なので、ここでは残念ながら割愛しますが、高校生に入って「長く走れなくなった」理由がはじめて分かり、それまでの間ずっと、これはおかしいぞ、おかしいぞ、と思いながら、懸命にみんなの後を追いつこうとして必死だったそうです。

そして、自分の力ではどうしようもないと感じ、和田先生はついに愛着のある1500mから、「三段跳び」に種目転向をすることを決意されたのでした。
この頃の和田先生は、相撲も大好きで、千代の富士に憧れていたそうです。その千代の富士が実は元陸上選手で、三段跳びの記録保持者だったことから、「よし、その記録を抜いてやろう!」と思い立ったという経緯でした。
それは、他の選手よりも遅れてのスタートには違いなかったのですが、しかし和田先生にとっては、むしろ自分自身を追い込みやすい状況だったそうです。一方で中学生のうちでまだ体が適応しやすかったことも幸いし、何と、県内の地区大会で優勝する、という結果に結びついたのでした。

当然ドライブがかかり、「次は県大会!」と意気揚々に臨んだそうでした。しかしここでまた転機が訪れます。県大会の前日に、不運にも、体育の授業の跳び箱で、着地に失敗して足首を骨折してしまったのでした。
そのショックで寝込んでいるところへクラブの顧問の先生から電話がありました。

「お前、スパイク脱いだらあかんぞ。高校に行っても陸上続けろよ」

と。普段そのような言葉を一切かけることのない先生だっただけに、思いがけずその時は嬉しかったそうです。

そして中学三年の頃に弁論大会という機会があり、「陸上について」という演題で発表したのでした。それが思った以上の反響で、このとき和田先生は、「心底やりたいと思っていることを、やってもいいんだ」と思えたという話でした。

一方、中学生の頃の勉強はどうだったか? というと、骨折中は、家で勉強したということでした。
それというのも、普段の授業で数学と英語にはノート提出があり、それを見てくれる先生が懇切丁寧だったからだそうです。そして先生からのレスポンスが励みとなって、「もっと勉強したいなあ」と思えたそうです。
その甲斐が実り、ひとまず自分の行きたい高校にも行くことができて、振り返ってみると「そのように力がついて、かなり満足する中学時代を送れた」ということでした。

さて、次は高校時代に話が移ります。和田先生は、高校で実績のある陸上の先生と出会い、その先生の用意するメニューをひたすらこなすようになりました。ところが、「従っていれば力は伸びるだろう」と思っていたのに、記録は不思議なほどいっこうに伸びなかったそうです。「中学3年では12m85、そして高校2年では13m05。これはトレーニングが成功していない証拠」と言ってその理由に挙げられたのが、「主体性が無かったのだろう」ということでした。ここでも悩みの時期が訪れました。

一方では、大学受験を考える時期が近づいてきました。けれども和田先生は、陸上をやりたくてそのことしか考えられず、先のことは全く考えていなかったそうです。
そんな時、修学旅行で見た三十三間堂が衝撃的で、京都の大学のことをはじめて調べてみる気になったそうです。

「京都の大学ってあるのかな?…あ、あるある」
そこでパンフを見ると、
「自由な校風。やった! ぴったり。じゃあ偏差値は…ああ…!」

と。しかし次がまた和田先生らしくて、「よし。目標は高い方が良い」と逆に奮い立ったそうです。そして「夢といってもいいもの」だったので、やりがいをもって努力できたということでした。

けれどもそれはまだ少し先の話で、やはり一番の悩みは、陸上で記録が伸びないことでした。そうして、暇さえあれば陸上の勉強をし、トレーニング科学、メンタルトレーニング、栄養学といったあらゆるアプローチの本を読み漁っては、日に日に自分を追い詰めていたそうです。
こういう姿を見ると、親御さんも不思議と「やめろ」とは言わなかったそうです。「もともと勉強しろとは言わないようにしようという方針だったのだろうと思う」ということでした。
けれども、まわりには批判的な目で見る人も大勢いたそうです。しかしそれもまた最初のうちの出来事で、インターハイに行きたいという和田先生の思いが周知されるようになってくると、周りの雰囲気がだんだんと変わってきたそうです。むしろ「この人大丈夫かな?」と心配するぐらいになっていったそうです。

ついに勉強もやめて、陸上に専念することに決心した和田先生は、こう思いました。「勉強しないでいることは、確かに怖い。でも8月(インターハイ)が終わってからでも十分できる。浪人してもいい。でもクラブは一生に今しかできない」

と。しかしそう思った矢先に、顧問の先生が転任し、今度は自分で一から百までトレーニングメニューを考えなければならなくなりました。けれども和田先生にとっては、「それがかえって自身でトレーニングを見つめなおすきっかけになった」そうでした。
一方で和田先生は、「しかし先生がいないと、ストップをかけてくれる存在がいなくなるので、つい力を出しすぎてしてしまい、病院送りになることもあります。それで実際私は大学の頃に一度怪我をしています。先生とは、駆り立てるだけでなく、ブレーキの役割でもあるのだと思います」とも仰っていました。

さて、インターハイを目指して、まず県大会があり、そこで上位6位が5県から集まって30人で競う地区大会があります。
和田先生が言うには、「三段跳び」という種目は、3回跳躍し、上位8人はもう3回、つまり計6回までチャレンジできるそうです。そのため、陸上競技では逆転を狙いやすい種目とのことです。

そしてその県大会で、生涯、忘れられない跳躍があったそうです。

県大会ではすでに先に飛んだ人の記録が悪くて、和田先生が6位までに入ること(つまり次の地区大会に出られること)が確定していました。その時、和田先生はふっと力が抜けるような感覚に襲われ、今まで力をセーブして飛んできたのを一度だけ「思い切り飛んでみよう」と思ったそうです。それはしかし、「今思えば、下手したら病院送りとの瀬戸際の出来事だったのかもしれない」という経験だったそうです。
思い切り飛ぶのだから、まずいい記録が出ることは確信している状態での助走が始まりました。
三段跳びは、陸上種目でも大会最後の種目なので、先に競技を終えた仲間達が周りに応援しにきてくれるそうですが、飛ぶときにまったく何も聞こえなくなるのがいつものことなのだそうです。
ですが、このときだけは違い、助走しながら、周りの声援が聞こえてきたのでした。「いけー!」とか「とべー!」とか。これは普通はありえないことなのだそうです。
その時の記録は、今までの中で一番いいものでした。そして県大会でのその最後の跳躍は、体から消えない感覚として残ったということでした。

和田先生が言うには、スポーツ選手は「そのことが人生だ」とやみつきになる傾向があり、肉体なり精神をぎりぎりまで追い込んで、ある境地に達すると、またその感覚を求めてしまうのだそうです。その世界を自分も味わったということでした。

その後、地区を6位でぎりぎり通過し、全国大会(インターハイ)に出場するという当初の目的を果たすことができました。それを周りのみんなが祝福してくれたということでした。そのおかげで、自分のやりたいことに努力することはいいことなんだ、と実感したそうです。
こうして、勉強を一切やめてしまったことは、それまで非難を浴び続けてきたけれども、後になってから「よくやった」という自負に変わったということです。

ただ、このように「成功してしまった」と錯覚したことで、その後の勉強でも「やればできる」と「慢心」してしまったそうです。そのなので「慢心してはいかん」と「やればできる」という両義的な経験をしたという話でもありました。

最後に、今の中高生に贈る言葉として、和田先生はその場にいる生徒達にこう伝えました。

 「今夢中になっていることは、臆することなくやれ」

と。「それがその後の人生につながっているかどうかは分からないが、自負は得られるし、後悔はしないと思う」と、そう最後に言って、締めくくられました。