福西です。
初回は、三人の自己紹介をした後に、「巻頭序」と「本書の表記法に就いて」という箇所を朗読しました。
まだ全部で10ページほどですが、書かれていることは、一字一句、「思考停止している頭を呼び覚ます」ような内容でした。(Iさん曰く、まるで「三国志の檄文のようだ」とのことでした。)
三者三様に印象に残った文章はあるかと思いますが、個人的には、以下のものが(自身の授業に対する反省として)心に残りました。
「教育の役割は、人が初めてそれを知る時、最大限の驚きが得られるように十分な配慮をすることであって、自動車レースのピット作業の如く、一刻を争って燃料補給をする事ではない、好奇心に溢れた「百歳の少年」を生み出す事であって、訳知り顔の「十歳の老人」を生み出す事ではない。」
また、以下のような文章があります。
「世の中のあらゆるものに「正解」が存在する、と著者は信じている。正しい構成、正しい文章、正しい表現、一文一文にこの他には決して表現のしようがない絶対的な正解が存在する。凡そ人間のする事に、完全な答えなど存在し得る筈がないと知りながらも尚、それが存在すると一途に追い求める。そうした矛盾に堪える事のみが、自分を鍛え、表現を磨いてくれる。そう信じているのである。」
(ちなみに本書で既出の漢字には、すべてルビが振られています)
さて、本文を読み終えたあとのディスカッションでは、漢字の表記についての話が盛り上がりました。
Mさんは、戦後と戦前とで断絶があるのではないかということを言われました。これはMさんが教えて下さったことですが、漢字にはもともと書き順というものは「なかった」そうです。そして書き順を定めた戦後の要領には、「これに従おう」という「ルールのもとにしているもの」があるからであって、それを変えてしまれば、また「常識」というものは変わるということを指摘されました(というのが私の解釈でした)。
人が作った未完成なものかもしれない、という疑いは重要で、「伝統」(先人が美しいとして伝えてきた姿形)と、「教義」(狭い仲間内でしか通用しないもの、ドクサ)とを取り違えないようにする必要があるのだということを、考えさせられました。
教義に陥って(頼りきって)しまうことは、ある意味人間的な過ちですが、その人間が作った未完成なものを、他の人間には「完成品」として押し付けることには、大きな禍根を生じます。(時には一人の人生を左右することだってありえます)。
一方、現行のものが「未完成」であることを知り、だからこそ(ergo)「完成がある」と信じて、改良を加えていく人がいるとすれば、それは「情熱のある人」(studens)と呼ばれる人なのではないでしょうか。
そこから、例として、小学校の先生の教え方に話が飛びました。Mさんの見聞きされた話によると、小学校低学年で、ある野菜の絵が描かれた上に、「□□□□」とあり、そこにカタカナを入れて答えさせる問題があったそうです。それを、小学生が「カボチャ」と書くと×で、「ピーマン」でないと○がもらえなかったそうです。
つまり、「自分が絵を見てそう考えたから」というのではいけなくて、「先生がそう教えたから」というのが正しいというのは、何のための教育の機会だろうかということを考えさせられます。
また、『虚数の情緒』では、漢字を多用した「漢字仮名交じり文」で書かれています。そのことについても話が膨らみました。
漢字が多用された文章は、読みにくかったり、かえって筆者の良識が疑われるなどの是非があります。その議論を踏まえ、筆者の出した解答とは、「極力漢字を使う、ただしルビを振る」というものでした。
その理由は、「文章を読む時は、漢字の読みを知らなければそこを読むことができない。でも文章を書く時は、漢字を知らなければひらがなで書くことができる。だから、漢字が読めることは、書くことよりも優先される。そして、その読みを知る貴重なチャンスとして、本書ではルビを振った漢字で極力書いている。それは書き手が労を厭わなければ済むことだから。」
というわけでした。またさらにその補足として、
「何事にも〝適正値”は在るものだが、その発見は至難である。そこで、本書はその探索の参考にして頂く為に、一方の〝端”を提示したのである──両端が判れば、必ず答えはその間に在るのだから。」
と述べています。
Iさんは、漢字の多い文章をルビとともに読むことのメリットとして、「夏目漱石など、明治以降の旧漢字で書かれた文献を、敷居を少なくして読むことができる」という意見を出されていました。つまり、「より多くのデータベースにアクセスできて有益である」と。
(字の話ではたとえば「凡そ」など、「いっそ」なのか、「およそ」なのか迷うことがあります。また接続詞がANDかBUTかで間違うと、意味が逆になってしまうことがありますと、Iさんが言うと、Mさんもまた、「法律用語でもそうですなんですよ」とおっしゃっていました。)
そのIさんの意見に対して、作者もまた、次のように書いていたのが面白かったです。
「大量の古典的良書を通して、漢字の適正運用を、更に根本的には、正しく美しい日本語の体得を目指して欲しい。言葉の学習に終着駅は無い。正しきものが在ると信じ、それに憧れそれを目指し続ける以外に方法は無いのである。」
さらに、
「自身の言葉が美しくない、と感じる人のみが、美しい日本語を会得し得る可能性を持つのである。」
と。
さて、以上のようなことが、「数学」の本に書かれていることは、そもそも奇異に思われるかもしれません。しかしここに書かれたことは、「国語の問題である」と同時に、終わりのないものに対し挑み続ける「人そのもの」の姿勢であり、人そのもののそれが、数学にとっても重要でないはずがない、ということを示唆しているように思います。
(「復・習・小・学・校・教・育・漢・字・以・下・千・六」で始まる、「漢字」1006文字による虚数単位iのカリグラフィー。ここにも作者の「文系理系」を問わない意気込みが垣間見られるようです。)
次回は、第1部「独りで考えるために」の第0章、「方法序説:学問の散歩道」から読みます。
貴重な記録をありがとうございます。そのことに尽きます。