上尾です。
年末年始、高校英語の授業は冬期講習を行いました。
冬期講習では、いくらか時間を割いて英語の基礎的構造
についての復習を行ったうえで、いつものようにテクストの
読解に取り組みました。英語学習は、やはりコンスタントに
ひとつのことを続けることが重要だと思います。
冬期講習を挟んだおかげで、年明け最初の授業も、意識の
高い状態で開始することができたように思います。
少しずつ物語が動き出したところです。文法の復習を行い
ながら進めていますので、一時間に読む量はそれほど多く
ありませんが、それでも、始めた頃よりはずいぶんとスムーズに
一文一文を読めるようになってきました。
今回読んだ段落は、物語についていっても、
ちょうど主人公に魔法の才能があることがわかって面白く
なってくるところでしたが、文法事項に関して言っても、
分詞構文が多用される、非常に重要な段落でした。
分詞といえば、実に様々な文法事項と関わる要素ですが、
分詞そのものについて一貫して馴染む機会は、文法の教科書
ではあまりないように思います。一方、こうして物語を読む
利点は、文法のカテゴリーに囚われずに、その都度その都度
現れる表現や単語を通じて、英語というものの全体的な感触に触れる
ことができることだと思います。今回の段落に現れた分詞構文についても、
それ以前に出てきた進行形の表現や、形容詞的な表現との関連を
通じて見ることで、いっそう感覚的につかみやすかったのでは
ないかなと思います。
英語は地道に勉強を続ける必要があるものですが、同時に、
その一部だけではなく常に全体を一挙に理解するつもりで
取り組む必要があるものだと私は思います。
とにかくがむしゃらに英語のシャワーを浴び続けるつもりで、
これからもテクストの読解を続けたいと思います。
学校教育における文法学習は「網羅的」に進みますので、「分詞」について重点的に教えるのが仮に5月であるとすれば、1年の内で、「分詞」にスポットが当たるのは5月だけ、というような話がありえます。高校生の場合、基本は習得済みなので、このように実際の英文を読んでいくことで、読む楽しさを味わいつつ、文法の復習もその都度行うことが効率的だと思います。
学校や一般の塾でも「読解」の授業はたしかにあります。しかし、上尾先生のクラスとの違いは、一冊の本を最後まで読み通す意図の有無だと思います。また、「試験」の有無というのも大きなファクターです。「試験」ありきの読解は、内容を味わうよりも、試験対策に目が向いてしまい、「おいしくない」のが一般です。一般の読書にせよ、漫画にせよ、TV番組にせよ、映画にせよ、それが「試験対象」になると、どれだけつまらなくなることでしょうか。
「おいしくない」読書を繰り返しても、「受かればよい」と考えるのが世間一般です。そうして受かったとしても、その先に何があるのでしょうか。
一方、「おいしい」読書を繰り返し、英語が好きになるけれども、それは「試験対策」ではないゆえ、試験に合格する保証はない、というのも世間一般の考えでしょうが、それは間違っています。このクラスのやり方は入試を視野に入れた試験対策としてみても、じつに理にかなっていると思います。
一見「楽しそうなこと」をしているかに見えて、生徒さんが毎回会得する語彙の力、文法の力は計り知れなく大きなものです。今回「分詞構文」のことが話題になっていますが、分詞構文は毎回出てくるでしょう。そのうち、生徒さんは分詞構文を見ても、それを分詞構文だと身構えなくても、すっと理解できるようになっているでしょう。なにせ、毎週繰り返すわけですから。同様に、仮定法しかり、不定法しかり、です。
残すところの条件は、「継続」の二文字です。今のペースで3ヶ月、半年・・・と継続すればするほど、ぐんぐん英語の読解力が身につくこと請け合いです。
こんばんは。失礼します。Matanoです。
>同時に、その一部だけではなく常に全体を一挙に理解するつもりで取り組む必要がある
という上尾先生のお言葉と、それから、
>一見「楽しそうなこと」をしているかに見えて、生徒さんが毎回会得する語彙の力、文法の力は計り知れなく大きなものです。
という山下先生のご指摘に、私はとてもお慕いしているラテン語の先生の、お山の学校での初級講読の時の授業が思い浮かびました。それは、内容は難しいことばかりなのに、先生は優しく丁寧に根気よく解説してくださって、また、テクストを味わって読める楽しい授業、でした。
先生が、広い視野で根気よく学生に教えてくださると、少し大変でも、「教えてもらってよかった」と、感謝する時がくると思います。
夢中になって学んだことを、何か別の機会に、「あ、あのことだ!」と気付いた時、私は「先生、ありがとう。」って、思います。
その先生は、文法を解説しながら、「今、わからなくても、また同じことが出てきたときに気付けたらいいんですよ。」というのが口癖でした。あの時は、なるほど、「とにかくがむしゃらにラテン語のシャワーを浴び続けて」いたのかもしれないです。
一学生の経験談として。
コメントをありがとうございました。たしかに英語だけでなく、ラテン語についても同じ事が言えると思います。
もちろん、「読む」ということについては、どのようなアプローチであれ、いつでも「楽しく」というわけにはいかないわけです。普通にアプローチすると誰しも「あれもできない、これもできない」というネガティブ思考に陥ると思います。辞書を何度も引かないといけない、文法の活用やルールを何度も参照しないといけない、といった具合に。
だからこそ、できるだけポジティブに英語(やラテン語といった外国語)につきあえるような工夫が不可欠ですね。(試験の意義は大いにあるにせよ「それだけ」を学びの動機付けにするアプローチはとりわけネガティブ思考に導きます)。
>「今、わからなくても、また同じことが出てきたときに気付けたらいいんですよ。」
この言葉を大事にして努力を重ねる人にこそ、真の学びの楽しさが訪れるのだと思います。
>山下先生
いつもコメントをありがとうございます。
>残すところの条件は、「継続」の二文字です。
まさしくその通りだと思います。語学学習は、やはり少し気の遠くなるような先まで見据えながら、焦らずに続けるということが大事ではないかと思います。その点、学校での“試験”はたいてい半学期分の成果しか見ず、しかも、試験が終わると、その単元でのことはもう用済みで忘れてよいかのような錯覚すら与えかねないものかもしれません。「段階的」ではなく、「持続的」な学習が必要だと考えます。
>Matanoさま
コメントどうもありがとうございました。
>「今、わからなくても、また同じことが出てきたときに気付けたらいいんですよ。」
とてもハッとする言葉です。いつでも何度でも理解するチャンスは巡ってくるんだということをこそ、生徒に教えることが大事であると、この言葉から感じました。