3/20 歴史入門(高校)

岸本です。

今年度最後のクラスでしたので、井筒俊彦の『イスラーム文化』を最後まで読み通しました。

 

第三章「内面への道」が、今回の議論の対象です。

前回までは、多数派のスンニー派の基本であるシャリーアを通し、神の意志を現世に実現するための共同体としてのイスラーム文化を議論してきました。

この文化パターンは宗教を社会化した点が特徴ですが、それとは異なる文化パターンも別に存在しました。

それが、「内面」を重視する文化パターンです。

「内面」とは、感覚でも理性でも捉えられない、存在の深層とでもいえばよいでしょうか。

私たちの目に見えるものは、この「内面」が自己表現した姿でしかなく、重要なのは「内面」だと考えるのです。

そして、この「内面」は全ての事物に存在します。

宗教においては、シャリーアよりもその内面であるハキーカを重視しますが、それゆえに最初に述べたスンニー派の文化パターンと対立せざるを得ないのです。

 

この「内面の道」の歴史的展開では、大きく分けて二つの異なった系統が見出されます。

その一つが、現在のイランの国教であるシーア派です。

シーア派でも『コーラン』の解釈が全ての原点である点は、スンニー派と同じですが、ハキーカを重視する彼らは、『コーラン』のテクストの表面的な意味ではなく、内的意味を探り、解釈していくことが特徴的です。

タアウィールと呼ばれるこの解釈が引き起こす聖俗の分離の問題や、タアウィールを行うイマームの役割や権威、そしてシーア派の歴史観など、それぞれについて「内面」という存在を通して議論していきました。

「内面」の存在は、どうしても私たちには理解できないものでしたが、それを前提としたシーア派的イスラーム文化の展開は非常に論理的だという点で、生徒さんと意見が一致しました。

納得のいかない現象に対して、すべて「非合理的」だとみなすのでは、その現象やそれを信じている人々を本当に理解していることにはなりません。

どうしてそのような思考に至ったのか、納得できる部分と、どうしても理解できない部分を分けて考え、批判あるいは改善していくのが重要ではないでしょうか。

これが、生徒さんとの議論で行き着いた結論です。

 

「内面の道」のもう一つの系統は、イスラーム神秘主義(スーフィズム)です。

シーア派においては、タアウィールを行えるイマームはアリーの子孫に、その中でも数人に限られていると考えられました。

しかし、イマームがそのように限定されないと考えると、ハキーカを体認した人は皆イマームということになります。

こうした人々はワリーと呼ばれるそうですが、その中でも徹底した自己否定と現世否定という修行を通して、ハキーカを体認し、その体験を神との一体化として受け取ることが、スーフィ(イスラーム神秘主義者)の特徴です。

生徒さんとは、スーフィズムにおける神の捉え方が議論となりました。

スーフィズムでは、修行によって徹底的に自己否定し、最終的に神と一体化し、その体験は「我こそは神」という言葉で表されます。

この場合、スーフィーは複数存在するため、神も複数存在してしまい、唯一性が失われるのではないかというのが生徒さんの疑問でした。

イスラーム教であるかぎり、神の唯一性は絶対だと第一章で述べられていたからです。

これに対しては、神が世界に遍在しているというスーフィズムの捉え方が重要になります。

遍在する神という捉え方に立てば、人間の中にも神は存在するはずです。

しかし、苦しみの源である自我意識がある限り、神と一体化することにはなりません。

ですから、スーフィズムでは自己否定を徹底するのです。

その結果、自我が消滅したときに、人の中に残るのは神。

ゆえに「我こそは神」となるのでしょう。

以上のような流れで行われた議論を踏まえ、スーフィズムの「我こそは神」は、神の分裂ではなく、遍在する神と合一したことを表すのであり、遍在しているとはいえ、神はあくまでも唯一であると考えました。

しかし、同じイスラーム教とはいえ、前回まで見てきたようにスンニー派の考えとは、相当かけ離れていることは確かでしょう。

共同体の宗教となったスンニー派と、『コーラン』の内的意味を重視するシーア派、そしてハキーカそのものと同一化するスーフィズム。

この三宗派の闘争、緊張関係がダイナミックで多層的な文化として、イスラーム文化を発展させたのだと、最後に井筒氏は結論付けます。

 

読了後、生徒さんと本書の全体的な議論を行いました。

生徒さんは、イスラームの歴史を学んでいた時には、理解できなかったイスラームの考え方を知ることができたのが一番の成果だと述べてくれました。

私たちが教科書で学んだ歴史があくまでも近代的(=西洋的)学問として成立したことを考えれば、イスラーム文化から切り離されたイスラームの歴史がわかりづらくなるのは当然かもしれませんね。

また、宗派は異なるとはいえ、ムハンマドとその言葉『コーラン』の教えが全ての基本にあることも指摘してくれました。

この共通性を、1500年近く保っていることに、イスラーム文化の生命力の強さを感じずにはいられません。

ただ、この本だけでは満足できないという議論も出ました。

イスラーム文化が共通性を持ちつつも、対立する宗派の多層的な文化であることは理解できました。

しかし、「はじめに」で述べられたように、グローバル化の中で実際にイスラーム文化と接触するとき、私たちはこの本から得た知識をどのように活用すればよいのでしょうか。

これは、別の文献も参考にしながら、私たち自身で考えねばならないことです。

ひとつの課題をクリアした後、また別の課題が生じてきたのです。

今年度は本日で終わりですが、新たな課題については、このクラスで得た知識や議論の仕方を参考に、ぜひ考えてみてください。

こうした積み重ねは、単なる知識の蓄積以上に、自分なりの世界や人の捉え方を育んでくれるはずです。

それが、これからの人生を豊かにしていくものであることを願っています。