岸本です。
今日は、『イスラーム文化』の第二章「法と倫理」の前半を読んでいきました。
前半部は本題であるイスラーム法を議論する前の、二つの前提について書かれていました。
その一つが、「法と倫理」もそこから引きだされる『コーラン』、その時代による性格の違いです。
イスラーム文化の原点である『コーラン』ですが、実はそこに書かれた啓示は約20年に渡って下されたものでした。
この「コーランの歴史」は約10年ずつの前期と後期に分けられ、その前期と後期で『コーラン』はその性格を一変させます。
イスラーム法は後期の『コーラン』の性格を基礎とするものでした。
イスラーム法の理解ためにも、この前期と後期それぞれの『コーラン』の特徴を理解せねばなりません。
メッカが主な舞台となった前期、『コーラン』の啓示は「暗い」雰囲気を持っていました。
なぜなら、神と人間の関係が一対一であり、またそれ故に神の倫理性の完璧さに人間は自らの罪深さを自覚してしまうからです。
そのような人間は、不正を罰する神を「怖れ」ながら、来世で天国へ行くために現世を生きることになります。
この「怖れ」が前期の「暗い」雰囲気を生み出していたのです。
他方で、メディナに移って以降の後期の雰囲気は「明るい」ものになります。
『コーラン』は、神の怖ろしさではなく、慈悲深い側面を見せるようになり、現世も神の「神兆」に満ちた場所として描かれるのです。
人間は神を「怖れ」るのではなく、「感謝」するようになるのです。
このような『コーラン』の変化は、契約の捉え方にも変化をもたらしました。
神と一対一の関係にあった前期と異なり、後期ではまず神と預言者ムハンマドが契約し、人間はムハンマドとの契約を介して、神と間接的に契約を結ぶのです。
このとき、ムハンマドと契約を結んだ人々は、神との契約を反映させた契約関係を結び、ここに「宗教上の兄弟姉妹」として共同体(ウンマ)が成立しました。
つまり、イスラーム教は社会性を帯びた社会的宗教となったのです。
イスラーム法を理解するもう一つの前提が、そのイスラーム共同体「ウンマ」です。
ウンマは言うまでもなく宗教によって結びつけられた信仰共同体です。
そして信仰共同体ゆえに、望めば誰でも入れるという開放性を有し、それがイスラームの「普遍性」、「世界性」を生み出すことになりました。
また、この共同体を構成するのはムスリムばかりではありません。
「啓典の民」であるユダヤ教徒やキリスト教徒なども、「ジンミー(被保護民)」として、低位ながら共同体の一部を構成していました。
ウンマとは、様々な宗教共同体からなる多層的な共同体だったのです。
今回読んだ部分は、普段は使用しないような「実存」であるとか「倫理」といった言葉が多用されており、一読してもなかなか理解しがたいところがありました。
生徒さんとは、それぞれの言葉が何を意味しているのか常に意識しながら内容を議論しました。
その中で、生徒さんは「啓典の民」に着目してくれました。
本来のイスラームには、他の宗教を受け入れる寛容さがあったことが気になったようです。
ひるがえって、解決不可能と言われる現在の宗教紛争、例えばパレスティナをめぐる争いも、解決が困難な主な理由は宗教ではなく、その背後の政治的、経済的な要因ではないかと推測していました。
宗教的要因を完全に排除してしまうわけにはいきませんが、そのような見方に立てば、宗教による紛争の解決の糸口が見つかるかもしれません。
本題であるイスラーム法を理解する準備段階で前半が費やされていましたが、それはこの本は最良の入門書であることの証拠でしょう。
来週は後半、いよいよイスラーム法について議論してきます。