岸本です。
井筒俊彦の『イスラーム文化』を読んでいます。
今回は第一章「宗教」の後半を読み、『コーラン』と合わせて議論していきました。
前回は、イスラーム文化が『コーラン』の解釈から生じてきたことが説明されました。
その『コーラン』は、まずもって宗教の聖典として解釈されてきました。
そこで、第一章の後半では、宗教のイスラーム的特徴が語られるのです。
イスラーム教は、根本的にはユダヤ教やキリスト教と同じ宗教を自任します。
しかし、理念型たるアブラハムの時代の宗教、「永遠の宗教」をゆがんだ形で伝えている両宗教を批判し、より純正な形に戻そうと主張します。
イスラーム教徒は、いわば「永遠の宗教」の復古運動でした。
彼らが目指す「永遠の宗教」において、神と人間は垂直的関係にあります。
もちろん、神が上、人が下です。
人間から神に直接接触することはできませんが、神は預言者に啓示を与えることで、人間と関係を結ぶことができます。
ただし、この関係はキリスト教のような父子関係ではなく、主人と奴隷の主従関係です。
神への絶対服従、「絶対的帰依」がイスラーム教の特徴なのです。
この関係を規定する神と人のうち、今回は神の性質について扱われました。
井筒は『コーラン』に描写される神の特徴として、人格性、唯一性、全能性の三つを挙げました。
これらについて、生徒さんと議論したのですが、生徒さんは人格性に興味を持ったようです。
そもそも、人格性という言葉自体がわかりにくいのですが、一般には人間的な性格を持つ神と捉えられます。
それゆえに、先に示したような主従関係を人間は神と結ぶことができる、と考えられます。
しかし、生徒さんは唯一性を志向するイスラーム教が偶像崇拝を嫌ったのは、神が人間の姿で表せないからではないかと疑問を持ってくれました。
アッラーが人格神ならば、姿かたちが(あるいは性別も?)あり、偶像で表すこともできると考えてくれたのです。
素直に考えて、最もな疑問だと思います。
ただし、イスラーム教の解釈では、アッラーは人格神といっても人間のような形をもっているわけではないようです。
あくまでも、人間と関係を結ぶことができる、コミュニケーションをとることができるという点で人格的であって、物理的には人間が把握できるものではないということだと考えられます。
ある種の矛盾ともいえる神の存在ですが、人間の認識を超越しているがゆえに神であり、信仰によってのみ結ばれる存在なのかもしれません。
また、生徒さんは、『コーラン』が従来の多神教のうち、アッラーの娘とされる女神を批判した一文を読んで、イスラーム教の女性の扱いに、関心を示しました。
男女不平等とみなされるイスラーム教ですが、その不平等自体は伝統的なものであったという点は、興味深いものでした。
本によれば、アラブ人は伝統的に娘が生まれることを恥辱とすら考えていたというのです。
生徒さんは、男女間の不平等は、何もイスラーム教に固有のものではないかもしれないと考えたようです。
一方で、イスラーム教がその男女観を一部は受け継いでいることも忘れてはなりません。
イスラーム文化の原点である『コーラン』の中にも、成立当時の考えが反映されているからです。
イスラームにおける男女不平等の問題は難しい問題ですが、その問題を考えるには、『コーラン』を聖典として読むだけでなく、史料として考える姿勢も必要なのかもしれません。
ムスリムでない私たちには、むしろそのような読み方が理解はしやすいでしょう。
異文化を捉えることのむずかしさを感じながら、今日は時間となりました。
来週は第二章「法と倫理」の前半を読んでいきます。