岸本です。
今回から、井筒俊彦の『イスラーム文化』の本論を読み進めていきました。
第一章「宗教」の前半について、今日は議論しました。
「イスラーム文化」の本質を探るこの本では、三つの主要な問題を扱います。
その一つが、イスラームの基本である「宗教」です。
国際色豊かなイスラーム文化の統一性を保たせた要素が「宗教」であり、その基礎こそが『コーラン』でした。
聖俗不分のイスラーム教において、このコーランは全ての生活の基礎となる重要な存在です。
しかし、『コーラン』はそれを補う第二の聖典「ハディース」によって、様々に解釈されるようになりました。
言葉である『コーラン』の解釈は、人によって様々です。
このことは、イスラームの「無限の可能性と柔軟な適応性」を生む一方、大きな危険性もはらんでいました。
全ての基準である『コーラン』の解釈が異なることは、それによって築かれる秩序の不安定さをも意味するからです。
柔軟性に潜むこの危険性を、ムハンマドは認識していましたが、言葉である『コーラン』の解釈は止められません。
実際、ムハンマドが危惧した如く、イスラーム帝国は分裂を繰り返しますが、それはこれまで歴史を学んだことからも、明らかです。
しかし、先に述べたようにイスラーム共同体「ウンマ」が統一を維持できたのもまた、『コーラン』に基づく異端宣告という制度でした。
一級のウラマーが行き過ぎた『コーラン』の解釈を防ぐためのこの制度は、しかし多くの犠牲者も生みました。
『コーラン』解釈の柔軟性に基づく分裂の傾向と、同じく『コーラン』に基づく異端宣告による統一性の保持の姿勢が、各地域・各時代で絶妙なバランスを取ることで、イスラーム文化は国際性と統一性を両立させるのです。
イスラームを分裂させたのも、統一性を保持したのも、『コーラン』なのです。
生徒さんは、イスラーム教が「商売人の宗教」と呼ばれていることに、関心を持っていました。
商売の肯定はイスラーム教の特徴ですが、それは決して徹底した資本主義のような弱肉強食の肯定ではありません。
商売を通じて得られた利得を、喜捨することは巡礼と並ぶムスリムの義務です。
キリスト教では商売をいやしいものとみなしますが、それは手段の違いであって、弱者を救済するという理念自体は、イスラーム教とキリスト教は似たようなところもあるのではないか、という方向に議論は向かいました。
さらに、他の聖典を解釈する宗教では聖典が様々な伝承や書物の組み合わさった多層的なものであるのに、『コーラン』はムハンマドが神から受けた啓示という単層的なものだという主張に対して、生徒さんは疑問を持ってくれました。
イスラーム教でも宗派が異なるスンナ派とシーア派が存在するのに、例えば新たにシーア派の『コーラン』が生まれてこなかったのは何故か、という疑問です。
もちろん『コーラン』の成立の事情も関係するのでしょうが、少数派であるシーア派の人々がどうしてスンナ派と同じ『コーラン』を聖典と仰ぐことができたのか、興味深いですね。
この点は、おそらく第三章「内面への道」で明らかにされることでしょう。
いましばらく宿題にしたいと思います。
来週は、第一章の後半、イスラーム教における神と人間の関係について、議論していきます。