岸本です。
久しぶりの今日は、九鬼周三の『外来語所感』を読んでいきました。
九鬼周三は、「いき」の構造で知られる哲学者ですが、それに通ずる彼の日本文化への愛着が、この作品には表れています。
まず、彼は身近な経験を踏まえて、外来語をむやみに、できるだけ用いるべきではないと主張します。
続いて、それに反対する意見に対して彼なりの再反論を試みるのです。
最終的に、文筆活動の最前線に立つ知識人階級が率先して日本語を用い、外来語もできるだけ日本語に訳していく努力が必要だと主張するのです。
戦前に書かれた作品のためか、外来語を「不可欠的悪」や「贋金」として「駆逐」するという一節は、現代の私たちからすれば過激とも読めてしまいます。
そんな外来語批判の文章でしたが、生徒さんとの議論からは、現代でも通用する部分が見出されました。
一言でいえば、無批判に物事を受け入れない、という姿勢です。
九鬼の外来語批判の背景には、西洋崇拝の断絶という意識がありました。
近代化を進めていく日本の中で、西洋文化を批判する意識が既に存在していたことは、忘れてはなりません。
今では、必ずしも欧米文化が正しいわけではないことが示されていますが、九鬼の主張は便利だからといって無批判に西洋文化を受け入れてはダメだ、という主張の先駆けとも呼べるのではないでしょうか。
(もちろん、それが自国文化だから素晴らしい、と短絡的な主張に結び付いては元も子もありませんが。)
それに加えて、自分で考え、理解することの重要性を、九鬼は主張していると思われます。
生徒さんが興味をもってくれたように、人は新しい言葉や聴き慣れない言葉を使いたがる「好奇心」があります。
しかし、周りに流されて、自分で理解しないまま使う言葉は、空虚な飾りでしかありません。
その言葉が力を持つためにも、本当の意味で理解する必要があるのです。
九鬼の言う日本語への翻訳という作業は、まさにその過程なのではないか、と議論では盛り上がりました。
ここで、九鬼の主張を超えて、新たな議論が展開します。
例え誰かが日本語に翻訳したものであったも、その言葉を理解するためには、個々人が自分でもう一度その意味を考えなおす必要があるのではないか。
普段何気なく使う言葉ですが、無批判に受け入れるのではなく、いちど考え直し、自分の理解した意味で用いる。
今回の生徒さんとの議論から至った結論は、重要に思えます。
残りの時間は、記事を読んでいきましたが、一つ、今回の『外来語所感』に通ずる記事がありました。
それは、「「ドラえもん」が放送禁止に、母国語習得に悪影響 バングラデシュ」という時事通信の記事でした。
バングラディッシュでは、ドラえもんがヒンディー語で放映されているために、母国語のベンガル語の教育に悪影響を及ぼすとして、放映が中止されたという内容です。
外来語とは異なる次元ですが、外国の文化をどのように受け入れるべきか、生徒さんとの議論とは違った方向で、九鬼の文章は参考になるかもしれません。
来週も、何か短い文章を読み、それから記事の読み取り、できれば書き取りも行いたいと思います。