福西です。今回はクラスの様子ではなく、日頃の考えを書かせていただこうと思います。
(今山びこ通信を書いていて、それの下書きにしたものです。言葉足らずなところはどうかご容赦ください)
これは月並みな言い方になりますが、「つくる」クラスで私が肌身に感じていることは、生徒たちの生き生きとした可能性です。彼らが一体どんな大人たち(男の子ならぜひ「いいオッサン」という表現を使いたいと思います)になっていくのかと、思いめぐらせながら、授業の端々で見られる笑顔を目にすると、私は「リアルタイムでこの上なく贅沢な映画を観ている」のだと実感します。
ここでいきなり話が飛びますが、世の中にはまず「これが正解」というものがありません。つまり、正解のない問題を自分の手で「正解にしていく」しか道はありません。であれば、そうした問題にぶつかっていくために、必要となるものは何でしょうか。
物理的、そして精神的な体力だと思います。私はこの精神的な体力は、「思い出」だと考えています。自分が正解の主体者になるということは、世の中の浮き沈みを人のせいにしない、そういうことなのだろうと思います。そして、それができるためには、嘘偽りもやせ我慢も混じらずに「これが私だ」と首肯できる、自分の分身とも呼べる思い出が必要です。この思い出は、決して減ったり、なくなったりする類のものではありません。そして、そのような「なくならないもの」を原点にした時、たとえそれまでは流されていたとしても、また目の前の問題にぶち当たっていけるのだと思います。
世の中には色々な遠回りがあります。どれを通っても、近道ということはないのかもしれません。しかし、私が今一番「つくる」で伝えたいとことは、「本当に自分がしたいと思うことほど、近道である道はない」ということです。それがもし、「誰が何と言おうとしたいもの」であるならばですが。その条件を満たせずに、本当のそれが見つからない人ほど、他の色々な物事に保険をかけて、どんどん遠回りになっていきます。これにはおそらく私も含まれているのでしょうが、仮に大人になることが、いつか自分もそうなっていることにすら気付かなくなっていってしまうなのだとしたら、どんなにか寂しいことでしょうか。
「今しかないできない」というのは、世の中に溢れている脅し文句の一つですが、本当に今しかできないものは、こちらが語りかけるまで、じっと黙っているものです。つまり声高であればあるほど、金のように、本物の含有率は低く、本物であればあるほど、沈黙度は増していきます。けれども残念なことに、黙っているものは無視されてしまうのが世の中の常識です。だからこそ、沈黙しているものに一体どれだけ自分は耳を傾けられるのか? という非常識を、あえて持つ必要があるのだと思います。
私はこのクラスを単に物作りのクラスにしたくはありません。沈黙の価値に耳を傾けられる人を作りたいのです。
そんなのは理想だという人がいるかもしれません。しかし、理想は追い求めなければ、ついにはなくなってしまうものです。それは視界から見捨てた紙飛行機と同じだろうと思います。
もちろん、人はワクワクするだけでは食べていけません。けれどもブツブツ言うだけでも、食べたものにどんなに栄養があっても、味気ないはずです。私たちがよくいう「そんなこと」とは、いったいどんなことなのか、あるいは「そんなことよりも」と言う、どちらが「そんなこと」だと言えるのか。立ち止まって考える必要があるのかもしれません。
自分からしたいと思ってワクワクできる者に、終わりはありません。その人はいつまでも追いかけているからです。それは、いつまでも「追いかけることのできるもの」があるからだと思います。
書き綴りたいことはまだありますが、子供たちの飛行機の「飛んだ!」という、あの心躍る思いこそが普遍的だと信じ、筆をおきます。