岸本です。
今日は織田作之助の『大阪の可能性』の後半を読んでいきました。
前半部分は、京都弁より魅力的だとする大阪弁が「紋切型」ではなく、それゆえに文章に書くのが難しいという話でした。
そこから、「会話の書き方」とそこにはびこる「紋切型」批判へと話は逸れたのですが、後半は、また大阪弁の話に戻ります。
会話のなかでも、大阪弁は難しく、大阪生まれの大阪育ちの人間でもうまく書けるとは限らないと織田は言います。
その彼が認める大阪弁の書き手として、川端康成や谷崎潤一郎、宇野浩二らが挙げられるのですが、彼らの大阪弁が互いに異なり、それゆえに大阪弁の「変化の多さや、奥行きの深さ、間口の広さ」が証明されるというのです。
その後、書き手それぞれの大阪弁の長所と短所を批評し、それを受けて、「瞬間瞬間の感覚的な表現を、その人物の動きと共にとらえた方が、大阪弁らしい感覚が出」て、複数の会話が大阪弁の魅力を引き立てると主張しました。
「瞬間瞬間~」の部分は、私も意味をつかみかねる部分でしたが、生徒さんと互いの解釈をぶつけ合いながら、筆者の主張の奥まで入り込もうとしました。
一人では難しいと思える文も、複数で議論すればわかることがある。織田の言う大阪弁の魅力と通ずるところがあるかもしれません。
さて、織田が認めた大阪弁の書き手たち、しかし、彼らが書く大阪弁は「純大阪」ではなく、それぞれに地域差があることを織田は見出します。
その多様性に大阪の人々の個性が合わさって、大阪弁が「紋切型で書けない理由」となるのです。
むしろ、その「紋切型」を打ち破るところに大阪の魅力はあると、彼はいうのです。
この作品からは、巷でよく聞く「国民性」だとか「県民性」の議論に対する、鋭い視角が得られます。
生徒さんが書いてくれた感想文は、織田が述べたような大阪弁、ひいては方言の多様性が、今の日本では見られず、今後もっと失われていくのではないかという趣旨でしたが、標準化された言葉がそれをしゃべる人々を「紋切型」におしこめてしまうという指摘は、この作品から得られた視角が生かされている部分でした。
言語によるアイデンティティの形成というのは、中学生にとっては難しい話ですが、この作品を通して、生徒さんがその点に気づけたのは素晴らしいと思います。
『大阪の可能性』は、図らずも面白い議論ができた、よい作品でした。
来週はお休みですが、今後ともこのような作品に多く触れて行こうと思います。