岸本です。
今回は、これまでと異なり、キリスト教国家であるロシア支配下のムスリムたちの歴史を議論していきました。
これまでは、オスマン帝国やサファヴィー朝、ムガル帝国というイスラーム教国家の支配下にあった地域を中心に議論していきました。
しかし、ムスリムたちは、そのような地域にばかりいたわけではありません。
清朝の支配下に入った新疆や欧州にもムスリムたちは生活していたのです。
今回は欧州の中でも、かつてのイスラーム教国家をその支配下におくことになったロシア、そこに生きたムスリムたちを見ていきました。
ロシアがまず支配下に置いたのは、ヴォルガ川流域のカザン=ハン国でした。
16世紀にロシアへ占領されたこの地域では、約200年に渡って厳しいムスリムの抑圧政策が行われました。
しかし、18世紀末エカチェリーナ2世の下で、ムスリムへの寛容政策と方向を転じます。
その下で、タタール人と呼ばれたムスリムたちは、商人として経済力を蓄え、かつてのイスラーム文化を復興させていくのです。
他方で、カザフ草原やトルキスタン(中央アジア)は、19世紀になってロシアの支配下に組み込まれました。
この地域では、当初からムスリムに対して放置政策がとられますが、ロシアの資本投下による経済開発が進むと、格差の拡大と共に社会問題が発生します。
それが民族問題とつながり、マダリーによる反乱へとつながります。
これを機に、ロシアではムスリムへの寛容政策の見直しが提言されます。
トルキスタンのムスリム知識人たちがそれを批判するなかで、「トルキスタン」という意識の萌芽も見られました。
生徒さんは、中央アジアの支配との違いから、タタール人の支配に特に興味をもっていました。
つまり、タタール人と、カザフ人・トルキスタンの人々との違いに気づいてくれました。
タタール人はロシアに溶け込んだ一方で、カザフ人やトルキスタンの人々はそれに反発するのです。
その理由の一つとして、ロシアへの編入の時期が大きく異なることが挙げられます。
ただ、面白いのは両者の中で、ロシア(西欧)の文明に拠って自分たちのイスラームの国家を打ち立てていこうというナショナリズムが見られたことです。
タタール人の間では、それがロシアへの同化につながる一方、カザフやトルキスタンの人々の間では、それとは別のナショナリズム、「カザフ」や「トルキスタン」というアイデンティティに向かっていくのです。
その違いが露わになったのは、二月革命によって帝政が倒された後に開催された、全ロシア・ムスリム会議です。
ロシアの支配下にあったムスリムたちが一堂に会したこの会議では、今後のムスリムの将来が話し合われました。
ここで、ロシア共和国の下でムスリムとして生きていくか、それとも自分たちの国家を建設した上でロシアと連邦を組むのか、意見が二分されます。
このとき、ロシアとの一体化を支持したのがタタール人であり、独立国家を支持したのがカザフ人やトルキスタンの人々でした。
ソ連の支配下に入り、中央アジアでは「トルキスタン人」としての独立運動がおこりますが、この地域は結果として「民族」ごとに5つの国に分けられます。
それが現在のウズベキスタン、カザフスタン、キルギ、トルクメニスタン、タジキスタンの原形となるのです。
ロシアというキリスト教国、そしてソ連という共産主義国家という特殊な状況下で、ムスリムたちがどのように自分たちの存在を認識していたのか、いままでのイスラーム教の世界では見えにくかったマイノリティとしてのムスリムを考えることは、現在でも世界各地に生きるムスリムと付き合う一つのアプローチになるのではないでしょうか。
来週は、これまでのまとめも兼ねて、イスラームの文化を見ていく予定です。