岸本です。
今日は、織田作之助の『大阪の可能性』を読むことにしました。
冒頭で、まず大阪弁と京都弁が比較されます。
一般に京都弁は上品で美しく、逆に大阪弁はどぎつく下品とされている、と述べた後、作者は「私にはやはり京都よりも大阪弁の方が魅力があるのだ。」と続けます。
その理由、原因を考えていく評論が、このエッセイ『大阪の可能性』です。
生徒さんにまず音読してもらい、キリの良いところで私が解説などを加えていきました。
作者の織田作之助は、まず京都弁について語ります。
京都弁には確かに感心するところもあるが、それは京都弁が「きまり切った紋切型」であるからこそなのだと言うのです。
その例として出された、芸者とお内儀の会話は婉曲的でやや難解でしたが、生徒さんには古文の知識も動員して考えてもらいました。
他方、小説に書かれる大阪弁も、わかっていない作者が書くと、「紋切型」になると筆者は続けます。
そこから、なぜか「亜流」と「マンネリズム」がはびこる日本の文芸界の批判へと話は流れていきます。
本筋からは逸れる部分ですが、なぜ「紋切型」が「亜流」や「マンネリズム」につながるのか、生徒さんと文章を読み解きながら考えていきました。
生徒さんによれば、文学に通じていない人がいきなり一流の文学表現に出会うと、わからないのに立派なものであるから真似しようとするから、ということでした。
人間の心の怠惰な一面を表現するこの難しい部分を、生徒さんは適切に解説してくれたと思います。
今回は、ここで時間が来てしまいました。
続きは、次回読んでいきたいと思います。