5/11 中学ことば

高木です。

先週は自己紹介文の清書をしました。
今週からの数週間は、詩を読みながら作文に取り組みます。
その詩とは、宮沢賢治の「烏(からす)」(『春と修羅』第二集、所収)です。

     烏
                宮沢賢治

  水いろの天の下

  高原の雪の反射のなかを

  風がすきとおって吹いている

  茶いろに黝(くろず)んだからまつの列が

  めいめいにみなうごいている

  烏が一羽菫外線(きんがいせん)に灼(や)けながら

  その一本の異状(いじょう)に延びた心にとまって

  ずいぶん古い水いろの夢をおもいだそうとあせっている

  風がどんどん通って行けば

  木はたよりなくぐらぐらゆれて

  烏は一つのボートのように

    ……烏もわざとゆすっている……

  冬のかげろうの波に漂う

  にもかかわらずあちこち雪の彫刻が

  あんまりひっそりしすぎるのだ

                (一九二四、四、六)

最初に、順番に朗読をしました。
詩の意味を確認する前に、ただただ、声に出して読むのです。
詩には、意味は分からなくとも、音で感じることのできる何かがあると思うからです。

まず私、次にK君、その次がH君。(この日、残念ながらA君はお休みでした。)
お二人とも、初読にも関わらず、非常にはっきりと発声ができていました。
ただ、たとえば「めいめいにみなうごいている」や、「木はたよりなくぐらぐらゆれて」の行などは、
漢字が少ないぶん、文の切れ目が見えにくいのか、少し読みづらそうでした。

もう一度朗読をしたときには、文を区切って、さらにゆっくりと朗読してもらいました。
このとき感心したのは、私が朗読をしたときに無意識に区切っていた箇所で、
お二人ともが自分のプリントの詩の文中にしるしをつけていたことです。
もちろん、そこで区切って読まなければならない、などと思う必要はないと思います。
ただ、お二人の意識の高さが、一生懸命さが、素晴らしいと思いました。
このようにして、お二人とも、さらに言葉を大切にしながら、もう一度朗読をすることができました。

言葉という音を、味わうように、声に出すこと。
その良さを強調して、朗読を終えました。
本当は、いつまでも朗読しつづけたいところです。

次に、文中の意味調べをしてもらいました。
「黝(くろず)む」などは、そのままの漢字では、広辞苑にも載っていませんでした。
おそらく当時の読み方か当て字で、現在、「黝」の字は「あおぐろ(い)」と読みます。
H君が「『黒ずむ』でいいのかな」と推測して調べてくれていました。
後から調べたK君も、「黒ずむ」で調べてくれました。

「くろずむ」は、他に言葉が無いため自動的に「黒ずむ」に決まるものの、
辞書で言葉を調べる際には、どの言葉か、どの意味かを、文脈から推測することが大切です。
たとえば、「冬のかげろうの波に漂う」の「かげろう」は、
辞書で引くと、「陰ろう」、「蜉蝣」、「陽炎」と、三つ出てきます。
まず、「冬のかげろう」ですから、動詞の「陰ろう」ではないことが分かります。

では、蜉蝣か、陽炎か。
「冬の蜉蝣」でも、確かに意味は通りますが、
それよりは、「冬の陽炎」と読むと、それに続く「波に漂う」揺らめきにうまく連なります。
しかも、「冬の蜉蝣」よりも「冬の陽炎」のほうが、
「冬」と「陽炎」という対比が生きてきます。
K君とH君は辞書に書かれてある意味と文脈とを対比させながら、
最終的には「陽炎」のほうを選んでくれていました。

このようにして、言葉の意味を知ろうとするとき、すでに詩の意味を読みはじめているのです。

授業の最後は、みんなで一緒に詩の意味を考えました。

「水いろの天の下 / 高原の雪の反射のなかを / 風がすきとおって吹いている」

空のかがやきと、そのかがやきを反射する雪原、
どこまでも照らし合う一面の水色と白色のあいだを、
光に濾過された風が吹きわたっている。

ここまで読んだとき、不意にK君が「あぁ、そうか!」と声を上げました。
H君と私がなにごとかと思ってK君の顔をみると、
「もしかしたらこの詩は『季節』を表してるのかもしれない」と彼は言いました。

「『高原』にはなんとなく『春』のイメージがあるし、
うしろから三行目の『冬のかげろう』には『冬』って出てきてる。
そうして考えてみたら、前から六行目『烏が一羽菫外線に灼けながら』は『夏』をおもわせるし、
その三行後からの『風がどんどん通って行けば / 木はたよりなくぐらぐらゆれて』は『秋』の感じがする。
この詩には、最初から順番に、『春夏秋冬』が出てくる!」

非常に面白い解釈だと思いました。
私は気づきませんでしたが、言われてみれば、なるほどと思えました。
よく、詩は行間を読むことが大切だと言われますが、
まさにK君は、その書かれていない余白に、豊かなイメージを読み込んでくれたのでした。

またK君が、一行目「水いろの天の下」と、
八行目「ずいぶん古い水いろの夢をおもいだそうとあせっている」が、
同じ「水いろ」で繋がっていることを発見して、
「『水いろの夢』が『古い』のは、今は『夏』で、前に『水いろ』を見たときは『春』やったからや!」
と解釈してくれたのをうけて、
H君は、「『水いろの夢をおもいだそうとあせっている』のは、早く新しい『春』になってほしいから!」
と、烏の気持ちを想像してくれました。
H君もまた、詩人なのだと思いました。

詩の意味を読んでいくこと、解釈していくことは、「唯一の意味」を「教わる」ことではありません。
書かれなかった詩文は、永遠に書かれないままなのであって、
余白が余白でありつづけるからこそ、各自が想像する余地が生まれる。
それは、詩を読むことであると同時に、自らが詩を書くことでもあるような、
「ことば」との生きた接しかたです。

今週はみんなで一緒に詩の意味を途中まで考えました。
A君がお休みだったので、来週は、すこしおさらいをしてから、続きに進みます。