岸本です。
今回はオスマン帝国支配下のエジプト、スーダン、マグリブ地方と、インドのムガル帝国を議論していきました。
ムハンマド=アリー朝の下で近代化を成し遂げたエジプトですが、財政破綻によってイギリスの影響下に置かれます。
それに対して、「エジプト人のためのエジプト」をスローガンにオラービー(ウラービー)革命が生じました。
これがエジプト民族運動の原点となります。
面白かったのは、以前西洋史で扱ったときには、ウラービーの「反乱」とされていたことです。
私が参照したイスラーム研究では「革命」とされ、一般的な世界史では「反乱」とされます。
語る主体によってニュアンスが異なることを理解できる好例でしょう。
その後、エジプトはイギリスの事実上の植民地となっていくのです。
エジプトの支配下にあったスーダンでは、オラービー革命に影響を受け、イギリスに対してマフディー運動という民族運動、戦争がおこりました。
ただ、イスラーム教の「救世主」を意味するマフディーが表すように、これはイスラーム教を介した民族運動でもありました。
このような運動は、スーダンだけでなく、マグリブ地方のアルジェリア、リビアでも見られました。
スーフィズムによる反植民地運動を通した民族意識の促進が、アフリカのナショナリズム意識形成の特徴かもしれません。
さて、デリースルタン朝の下でイスラーム国家が浸透した北インドでは、ティムール朝の再興を断念したバーブルがムガル帝国を打ち立てます。
その後、一時の中断を経て、第三代アクバルの下で、帝国の基礎を築きました。
繁栄の一要因は、インドで多数派のヒンドゥー教との融和政策でした。
アクバル自身、ヒンドゥー教徒の妻を迎え、ヒンドゥー教徒のジズヤも廃止しました。
この政策は長らく維持されてきましたが、厳格なスンナ派の第六代アウラングゼーブ帝の下で、ジズヤの復活やヒンドゥー教徒の弾圧が行われました。
彼の下で帝国は最大版図となりましたが、逆に戦費の増大は疲弊を招き、地方勢力の自立化が進みます。
彼の死後、帝国は事実上解体し、ムガルはデリーの一小国となります。
その支配に抗ったヒンドゥー教国のマラーター王国やシク王国は、今度はイギリスとの対立に至るのです。
生徒さんとは、インド亜大陸が完全に統一されたのは、イギリスの植民地下であることが話題となりました。
現在のインド国内の多様性を考える上で重要な視点かもしれません。
来週は、ロシア支配下の中央アジアのムスリムを見ていく予定です。