岸本です。
今日は一人お休みのため、一対一のクラスでした。
最後のクラスで一人お休みしたのは残念ですが、新しく「始皇帝の臨終」を読みました。
この話は有名な始皇帝の死の際の遺言捏造問題のところを膨らませて書かれた物語で、特に死に際した始皇帝の様子が描かれています。
最初に聞いたところ、「難しくて感想がわからない」と指摘されたので、前回の始皇帝の解説に引き続き、内容について解説が必要なところを適宜説明しました。
そこから、「始皇帝がどういう人物だったのか?」という問題を考えてみました。
自分勝手、死を恐れている、病気のため弱っているなどの意見を出し、確認した後、それらをまとめました。
始皇帝は皇帝として強力なリーダーシップを発揮する反面、それゆえに周囲から疎んじられているような孤独な一面をもつ。また病気がちだったため、死を恐れ、死に際してはこれまでの行いを後悔しているような情けない一面を呈する。
こうしたことを二人で議論をしながら、導き出したのです。
今回はいつもと違って、感想が分からない状態から一つの問題を提起して、議論しながら結論を考えてみました。
なんだかソクラテスの「問答法」を想起しますが、違うのは私がソクラテスではない、つまり導かれる答えが私にもわからない点でしょう。
答えを導くのはあくまでも生徒なのです。
>なんだかソクラテスの「問答法」を想起しますが、違うのは私がソクラテスではない、つまり導かれる答えが私にもわからない点でしょう。
答えを導くのはあくまでも生徒なのです。
私はまさにそのような授業(という言葉も不適切ですが)を願っていました。
答えに肉薄しようとするのが生徒であり、このクラスでは岸本先生もその点では生徒と同じ立場であるという点が、
一般の学校や塾との最大の相違点である、しかし、じつはこれこそソクラテスに遡るヨーロッパの
――今の学問の基礎を形成したところの――「伝統的」かつ「古典的」教育であると私は思います。
キケローに ipse dixit (彼がそう言った)という表現があります。彼とはピュタゴラスのことで、ピュタゴラス派の
弟子に、「なぜか?」と議論の根拠を求めると、きまって彼らは「ipse dixit(先生がそういわれた)」と答えたと
述べます。
現代の教育について、キケローに倣って言うなら、「(教科書に)そう書いてあるから」と批判することができるでしょう。
暗記型でない、本物の「議論」(というと日本語ではまだまだ生硬ですが)を重んじた授業を展開しようとすれば、
岸本先生のされているような形になると思います。ただ、その形を通し、意義深い時間の流れを演出するには、
先生の才能と資質が問われます。私は、今回おかきの「導かれる答えが私にもわからない」という表現にこそ、
「無知の知」につながる、まさにソクラテス的教育者像を重ねます。
今流行している「成果主義」のベクトルに照らすと、何の役に立つのか?何をしているクラスなのか?
今ひとつ具体的に説得しづらい面は否めませんが、逆に、そのような問いにスラスラ答えられる授業って
いったい何?と突っ込みたくなります(笑)。