岸本です。
今回は「孔子 粥にありつく」を読みました。
あらすじは以下の通りです。
旅の途上、食料を失い、空腹に苦しみ孔子一行。
なんとか米を譲り受けたが、空腹で動けない一行に代わって、
弟子の顔回がそれで粥を作ることになった。
その調理中に孔子は顔回が粥をつまみ食いしているのを目撃した。
そこで孔子は遠まわしに、顔回にカマをかけてみたが、その受け答えもあのときの行動も道理にかなったものであった。
孔子はそのとき良心の呵責に襲われたが、それを弟子たちに告白することで緩和した。
と同時に、彼は自らの領袖としての尊厳は損なわれていないことに安心を覚えたのである。
孔子や顔回の行動に違和感を懐いた感想や、無意識的に孔子の思想への批判を含んだ感想が挙がり、着眼点がよりよくなっているように感じました。
次に孔子の思想の根本である「仁」について、端的に「他人への思いやり」と表現して説明を行い、それに照らし合わせて、先ほどの感想を吟味しました。
そして、そこから孔子の顔回に対する疑いとカマをかけたことが、自身の考えに即しておらず、そこに「良心の呵責」を感じていたこと、そして告白によってそれを緩和したことを確認しました。
最後に次のような問題提起をしました。
なぜ孔子は自らの尊厳が損なわれていないと安心したのか。
という問いです。
自らの過ちを示すことで孔子は何を得たのか。逆説的な話ですが、それを論理的に表現てきれば、かなりの力になると思います。
来週が楽しみです。
うーむ、深い話です。おもしろい。このエントリーを読む大人のみなさんも(私がそうです)、ぜひ参加したいと思うような授業展開です。学校の教科書や進学塾の問題集では学べないなにかがここにありますね。そういう授業(というかクラス)は先生も楽しいし、先生もたくさん学んでいる気になるのではないかと思います。月並みですが、教えることは学ぶことである、と。ラテン語だと Docendo discimus. ですね。