
福西です。以下のクラスと、講師からのメッセージを紹介します。
日時:水曜20:10-21:30
講師:林 祐一郎
授業形式:オンライン
講師からのメッセージ:
「はじめにナポレオンありき」。聖書を彷彿とさせるこの言葉は、ドイツの歴史家トーマス・ニッパーダイ Thomas Nipperdey(1927-1992)が、自国の近代史を語り始めるさいに使った文句です。フランスからの侵略者ナポレオン・ボナパルト Napoléon Bonaparte(1769-1821)が、当時バラバラだった中欧諸邦に良くも悪くも影響を与え、ドイツ統一へ至る近代が始まったという、一つの歴史観。無論、「黒船の衝撃」を前提とする明治維新の古い語りにも似た外圧重視の見方に対して、ドイツの分権的な連邦主義の伝統を強調するディーター・ランゲヴィーシェ Dieter Langewiesche(1943-)など、修正を求める歴史家も現れます。ですが、そもそも歴史には様々な力学が作用していて、一つの法則で全部を説明することはできません。そうした諸々の潮流のなかに、近隣の外部勢力や普遍的価値を標榜する権力の干渉を受けて、むしろ固有の自己意識を形成してきたという、一つの底流があったことは確かです。
外国語を学習することもまた、自己意識を養う過程です。そう書いてしまうと、奇異な印象を受ける読者が多いかもしれません。外国の言葉を勉強する積極的な動機としてよく考えられるのは、海外の事情に詳しくなるためだとか、広い視野を持った国際人材になるためだとか、場合によっては極東の窮屈な島国から脱し、身も心もまるごと異国の人間になってしまうためだとかいったことでしょう。しかし、「生まれ」がキリスト教の原罪のように天から課せられることはなくとも、地上での「育ち」は重くのしかかります。本校で外国語を学習される方々の多くは、学習対象とは離れた世界で生きてこられたのですから、長年のうちに固着した自分の慣習や思考を意識せざるをえません。それは、どれだけ懸命に磨き落とそうしても綺麗に取り除くことのできないシミのようなものです。だからこそ、肯定も否定も含め、他者からの刺戟と誠実に向き合いつつも、いやむしろ向き合うことによって、自身のなかに何らかの「聖なるもの」を見出すという、かつての自由神学のような取り組みはできないでしょうか。
思うに、古今東西の教養を積んで個人の人格を陶冶するとは、ただ新しい知識や技術を身につけて「自分が何者かになる」ことではなく、外部からの刺戟に身を晒して「自分が何者かを知る」ことでもあります。筆者が教えているドイツ語は、我々が慣れ親しんできた日本語だけではなく、日本で中等教育段階から教え込まれてきた英語ともまた少し異なる、一種独特な言語体系です。筆者はこのドイツ語の初級文法を、数々の流麗な例文を盛り込んだ教科書『読むためのドイツ語文法』(郁文堂、2013年)に助けられながら、媒介語の日本語で教授してきました。読むことに主眼が置かれている本校にあって、そこで与えられる課題の多くは、ドイツ語の文章を日本語に訳し、また日本語の文章をドイツ語に訳すというものですが、こうした単純ながらも大変な作業を通じて、各自の思考は鍛えられてきたはずです。また、少人数授業ですから、質問もしやすく、疑問点をその場で解決することが比較的容易になっています。そして、試行錯誤と質疑応答によって答案を添削していくことが、ドイツ語や自国語に対する理解を深めることにも繋がるのです。こうして、昨年12月からは受講者の方を新たに迎え、すでに文法の学習が進んでおります。社会人として勤務される傍ら、精力的に刻苦勉励される姿には、頭が下がる思いです。言葉を理解するのは、自己と他者が相対するための第一歩です。なにしろ、ヨハネの福音書によれば「はじめに言葉ありき」なのですから。
(林 祐一郎)
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