「言語によって知的昂揚を感ずる」(古人の)言葉

福西です。

司馬遼太郎に、「なによりも国語」というエッセイがあります。

その中に、次のような印象的な表現が出てきます。

言語によって感動することもなく、言語によって叡智を触発されることもなく、言語によって人間以上の超越世界を感じることもなく、言語によって知的昂揚を感ずることもなく、言語によって愛を感ずることもない。まして言語によって古今東西の古人と語らうこともない。

─「なによりも国語」(『十六の話』司馬遼太郎、中公文庫)所収

ところで最近、寝る前に、セネカの『幸福な人生について』を読み返しました。

そこで、「言語によって知的昂揚を感ずる」(古人の)言葉に出会いました。

それを一つ、試訳とともにご紹介します。

セネカ『幸福な人生について』3.1

Quaeramus aliquod non in speciem bonum, sed solidum et aequale et a secretiore parte formosius; hoc eruamus.

【試訳】

探そうではないかquaeramus)、外見の中にin speciemあるようなaliquod善をbonumではなくnon sed堅実でsolidumそしてet同じでaequaleそしてet(表面に)分けられた部分よりもa secretiore parte(隠された部分が)より美しいformosius(善)をすなわち;これをhoc掘り出そうではないかeruamus)。

 

Nec longe positum est: inuenietur, scire tantum opus est quo manum porrigas;

(それは)遠くにlongeおかれてpositum estいるのではないnec)。(足元に)見つかるだろうinvenietur)、ただtantum知ることがscire必要なのだopus est)、どこにquo手をmanum伸ばせばよいかporrigas

「ラッキー(ハッピーとは別物)を求める気持ちをコントロールして、明日もがんばろう」と思いました。

このあとセネカが何を書いているかは、ぜひ本書をお読みになってください。

 

以前も同じことを言っていましたが、

セネカは、いい。

ですね!