ルキウス・アンナエウス先輩!(Danda est animis remissio)

福西です。

セネカ。やっぱり、いいですね。(これが今回の結論)

そう思ったきっかけは、以下の一節です。

Rogo itaque, si quod habes remedium

「それで(que)、以上のようなことを(ita)私はお尋ねする(rogo)次第です。もし(si)何か(quod)回復薬を(remedium)あなたがお持ちでしたら(habes)」

これはセネカの『心の平静について』という対談の中(1章17節)に出てくる言葉です。言いだしっぺは、(要職にあった)セレヌスというセネカの友人。彼はセネカに、次のように相談します。

「実は私、気分的に(in statu=condition)悲しくない(non pessimo)のと同じように(ut)、そのように(ita)、最悪の不満(maxime querulo)と(et)拗ねた気持ち(イライラ)(moroso=peevish)に置かれているんです(positus sum)。病気でもないし(nec aegroto)、健康でもないんです(nec valeo)(でもそれが悩みなんです)」

沈みもしなければ浮きもしない。でもそれがなんだか、私、無性に「嫌」なんです、と。

そして「でも(tamen)自分は(ipse)自分に(sibi)余計に(plurimum)同意(追従)してしまう(assentatus est)」(だから「あなた」に相談しにきました)という断りを入れてから、先の「もし回復薬をお持ちでしたら…」につながります。

で、『心の平静について』は、以下それに対するセネカの返事が続く、という展開です。

心には寛ぎが与えられねばならぬ。心は休養によって、前よりも一層鋭さを増すであろう。肥えた畑は酷使してはいけない。つまり、一度も休耕しないで収穫だけを上げるならば、畑はたちまち不毛の地に化するであろう。それと同じように心も休みなく働くと、その活力をくじかれるであろうが、少しでも解放されて休養すると、再び活力を取り戻すであろう。

──セネカ『心の平静について』17章5節(『人生の短さについて』茂手木元蔵訳、岩波文庫、所収)

「心には寛ぎが与えられねばならぬ」(Danda est animis remissio)の文章は、『心の平静について』のほとんど最後の方に位置しますので、ある意味、全体の結論も含んだ内容になっているはずなのですが、それにしてもすごく平易なことを言っていますね(笑)。

若い頃の私なら、「はいはい」と聞き流したかもしれません。でも歳をとると、こういう文章(アドバイス)の方が、しみじみ心に響きます。

要するに、心の「連続使用」にご注意、ということですよね。

セネカ曰く、土だってそうでしょ、と。心の場合は、たっぷりでなくてもいい、少しの息抜きで、やる気と元気を取り戻すことができるのだ。と、まあそういう趣旨なんだろうと思います。

本の作者と題名を聞くと、ついつい、ストイックなイメージを浮かべてしまいます。でも実際に本を開けてみると、「そうでもなかったなあ」というのが、今回、新鮮な発見でした。

セネカ。やっぱり、いいですね。