普遍を求める意義・古典を学ぶ意味

福西です。

西洋古典叢書(京大学術出版会)のパンフレットを今でも大事に取っています。

この中の記事で、私ははじめて「逆照射」というギリシア人のアイデアを知りました。それをご紹介します。

古典の普遍の価値に照らし、「人間」を問う

──岡 道男(編集委員・姫路獨協大学教授)

およそ文学は世界における人間のありかたを問うものであるが、古代ギリシア・ローマの詩人、作家たちは、一方の対極に「不死」である神を据え、他方の対極に「死すべきもの」である人間を置くという、きわめて先鋭的な形でこの問題の解決をもとめ、人間の本質をえぐり出すことに成功した。世界文学において、自由、秩序、調和、フーマーニタース(人間であること、品位)などの理念がかれらによってはじめて明確に捉えられたのはけっして偶然ではない。ギリシア・ラテン文学がルネッサンスにおいて人間を中世以来の様々な抑圧から解放して近代・現代ヨーロッパ文学の成立、ひいてはヨーロッパ精神の形成にみちびき、今なお「古典文学」として尊ばれ、人間形成のための規範として仰がれるのも、それが普遍的理念を体現する人間像を呈示しているからである。

この人間像は、言語の彫琢と文学形式の探求によって驚嘆すべき芸術的完成に到達した。そこには、一時的なものと永遠なものを見わけ、本質的なものをできるかぎり的確に捉えて表現しようとする、倦むことのない努力がみられる。後代の文学において範型とされた、叙事詩、抒情詩、ドラマ(悲劇、喜劇)、小説(ロマンス)、諷刺詩、恋愛詩などの文学の形式の確立もまた、そのような努力の結実であった。

古典古代の文学は、二千数百年の歳月を経た今日においてなお、汲めども尽きぬ泉のように新しい生命に満ちあふれている。本叢書が現存のギリシア・ローマの文学をもっとも信頼できるテクストにもとづいて平易な現代語に翻訳し、ひろく読者に提供するのも、価値の変動のはげしい現代において、人間とは何かという問題を古典の不変の価値に照らして改めて考えるきっかけとなれば、との願いからにほかならない。

ラテン語で死を表す mors(モルス)。そこから来る「死すべき」という形容詞 mortalis(モルターリス、英語のモータル)は、転じて「人間」を指す言葉です。

永遠でも不死でもない人間。その「人間」とは何か、という問いかけ。そこで、ギリシア人は永遠であり不死である神々を置き、「そうではない存在」として、人間を彫り出した。まるで数学の補集合みたいですね。そのエッジの利いた表現力は、『イーリアス』しかり、『ギリシア悲劇』しかり、言わずもがなです。

「なぜ古典を学ぶのか」も、「人間とは何か」と根っこでつながっていると思います。人間とは何かと問い続ける巨人の肩に乗せてもらうこと。そして今ではない時間から、今への逆照射を得ること。古典を、あたかも「無限遠点」のように付け加えることで、現在のわれわれの人生を、より研ぎ澄ますことができるのではないでしょうか。

 

なお、山の学校の「西洋古典を読む」クラスでは、『アエネーイス』(ウェルギリウス、岡道男・高橋宏幸訳、西洋古典叢書)を講読中です。オンライン、かつ日本語で参加できます。講師は山下大吾先生です。