福西です。おさそいです。
おんなじことを何度も言っている気がしますけれど……。
ギリシャ語、ラテン語、漢文。
古典のテキストは膨大にあります。
その文法を学べば、一生、読むものに困りません。
あれもこれも読みたい。ワクワクして、人生が短く感じられます。すなわち、それは「充実」であり、結局のところ人生が「長く」感じられます。
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山下です。
たしかに古典作家との対話は、セネカも「人生の短さについて」(人生は使い方を心得れば長いという内容の作品)の中で推奨していますね。
福西です。山下先生、ありがとうございます。
セネカが言うように、生きている人間との対話と同様、死んでいる人間との対話も、有意義な時間の一つですね。曰く、「われわれのために人生を用意してくれる」(『人生の短さについて』14.1)、「永遠の道を教えてくれる」(『同』15.4)と。
私も以前、山下先生にすすめられて、古典語のクラスを受講していました。その予習や復習をしながら、不思議だなあと思う瞬間を、何度か経験したことがあります。たとえば、『アエネーイス』の1行に、最初のころは1時間(5行なら5時間^^;)かかっていましたが、きっとこの時間は「浪費」ではなくて、「別の時間」を生きているんだなと。
テキストと向き合う。人生の一部である時間を「使って」、一秒一秒、ローソクのように人生が「減って」いく。なのに、その時間を「無駄遣いだと感じない」のは、なぜだろう? と。
まわりではきちんと時間が流れている。八時からテキストと向き合って、十時になれば、二時間経っている。なのに自分の中では、三十分のような気がする。そこに、過去と対話したという充実感がある。そしてその時間は、「永遠の一部」と置きかわっているような気さえする……。
「悦」という言葉は、こういう時に使うのかなと、それはちょっと幸せなことだなと感じました。
時間は一つ。でも人間は、それを二つの目的に使える。「流れ去る時間」と「永遠と向き合う時間」と。きっとセネカは、後者の蓄積が「浪費ではない」がゆえに、「長い」と言ったのかなと考えます。