山下です。
幼稚園のブログを読み直していると、小学校以上の教育に当てはまる内容が見つかりました。転載します。
数学者の岡潔氏の言葉を紹介します。
「すべて成熟は早すぎるより遅すぎる方がよい。これが教育というものの根本原理だと思う。」(岡潔『春宵十話』より)
この言葉は常識の逆を述べているように見えます。
「成熟」を否定する言葉ではなく、「もっと早く」という意識を問題にしています。
世の中には、「今やらないと手遅れ」という脅し文句が横溢しています。
岡氏の言葉にハッとして考えてみます。
果たして世の中は、その脅し文句の主張する通り、「手遅れ」になった人たちだらけなのか、どうか。
かりにそのように見える人がいるとした場合、真実はむしろ、この脅し文句によって「はつらつとした人間らしさ」を奪われたからではないでしょうか。
司馬遼太郎氏は、授業で手を挙げて質問したら(時間通り進めたい教師にとって)授業の妨害と受け取られ、馬鹿者扱いされました。彼は質問によって自分の知識の「成熟」を図ろうとしたのですが、その道を先生によって妨害されました(彼はその後図書館に籠って独学の道を切り開くのですが、晩年本当は理解ある教師に恵まれる方が幸福であっただろう、と述懐しています)。
教育に勝ち負けの意識をもちこむのが世の常識となって久しいですが、カンニングしてもばれなければ勝ちは勝ちです(2011年3月は、11日まで、京大入試のカンニング問題で大騒ぎでした)。カンニングも、その場限りの揮発性の知識の詰め込みも、学びの本質からみれば、どちらも邪道ですが、後者は推奨されています。なぜかといえば、それが「競争」に順応し、「競争」に勝つ鉄則と信じられているからです。
今の時代の学校の勉強は、パン食い競争のようなレースのようなものです。パンは坐ってよく噛んで食べるべきものですが、レースでそのようなことは許されません。よく噛んで食べることが成熟の王道ですが、それは時間がかかること、邪魔なこととして禁止されます(=司馬遼太郎の例参照)。
学校では「噛むな、飲み込め、その方が速い」と教えているかのようです。
そもそも人間の成長に競争原理(厳密にいえば他との「比較」)を持ち込むことはご法度です。
では一切の競争に意味はないのか、といわれたら、答えはノーです。
同じ競争でも、「自分との戦い」があるからです。
いつも述べる「ヘラクレスの選択」は老若男女問わず誰にでも訪れます。
安易で楽な道か、困難を伴うが真の幸福につながる道か。
ひとり一人の子どもが、後者の道を歩む勇気を育み、実践できますように。そう願ってやみません。
人間として責任ある判断を下す心の準備には長い時間が必要であるが、それが人として真の成熟の道であると、岡氏の言葉は告げています。
(私自身は「早すぎる」も「遅すぎる」も関係なく、成熟はおのずと訪れるものである、と信じていますが、岡氏は「早く、早く」の風潮に反省を促すためあえて「遅すぎる」という表現を用いたと推察します)。