山下です。
前回の「ルクレーティウスのラテン語」を受講された方から次のようなご感想を頂戴しました。
今回も大変興味深く拝聴しました。
最近3回の連続講座により、ホラーティウスはウェルギリウスの、ウェルギリウスはルクレ―ティウスの、”本歌取り”をしているということ、大変面白いと思いました。それぞれの作品を単独で読むだけではわかりえない背景をたくさん教えていただきました。特にウェルギリウスの『農耕詩』に関するさまざまな疑問もルクレティウスからの影響がカギとなっているとのお話は、大変興味深かったです。先人への敬意は持ちつつも、amor(オンリーワンへの執着)は、文学者には譲れないところだったのですね。(あらゆる芸術はamorがなければ生まれないものだと思います。)
先生のお話から、西洋文学は作者、そして読者もギリシャ、ローマ哲学および文学の流れを踏襲し、それを共有していることを教えていただき、あらためて圧倒されました。遠い記憶ですが、ゼミでシェイクスピアの『リア王』を読んだことがあります。そこで “Nothing will come of nothing”. というリアの言葉が出てきました。キング・リアは、自分をどれだけ愛しているかを娘たちに問います。リアの遺産を狙う姉たちは巧みに愛の言葉を並べ立てますが、誠実ゆえにそれを口にするのを潔しとしない末娘のコーディリアは ”Nothing” と言ってしまいます。リアは姉たちの方を信じ、コーディリアにその言葉 ”Nothing will come of nothing” を言い放ちます。そこからリアの悲劇、そして一族の悲劇が始まります…この文脈ではルクレ―ティウスと直接関係はないかもしれませんが、当時の人々にとって、このことばは何かしら共通の認識があったのではないかと思います。
今回も大変楽しく勉強になりました。資料でご紹介くださったルクレ―ティウスの言葉は、今講読させていただいているセネカのにも通じることもわかりました。セネカの「運命(Fortuna)の手にあるものをどうにかしようとし、自分の手にあるものを逸している」という文が思い浮かびました。思想の背景を知って作品を読むことの楽しさを教えていただきました。誠にありがとうございました。
私としても「ラテン語の夕べ」をやってよかった、と思いました。