福西です。
(その1)の続きです。
『英語で楽しむ赤毛のアン』(松本侑子/対訳・解説、the japan times出版)をガイド役に、以下の原文を読みました。(4章)
“What is the name of that geranium on the window-sill, please?”
“That’s the apple-scented geranium.”
“Oh, I don’t mean that sort of a name. I mean just a name you gave it yourself. Didn’t you give it a name? May I give it one then? May I call it—let me see—Bonny would do—may I call it Bonny while I’m here? Oh, do let me!”
“Goodness, I don’t care. But where on earth is the sense of naming a geranium?”
“Oh, I like things to have handles even if they are only geraniums. It makes them seem more like people.
handleは、あだ名、呼び名。ハンドルネームのハンドルですね。
何でもあだ名のある方が、アンには人のように感じられて、好きだということです。そのセンスは、マリラには理解しがたいようですが、このくだりは、3章でアンが自分の名前にこだわったことを引き継いでいるように思います。
そのときは、アンはコーデリアと呼ばれたかったけれど、「eの付いたアン」で我慢する、ということで落ち着いたのでした。
I like things to have handles even if they are only geraniums.
even if の前後で、想像/現実に分かれています。
このパターンは、アンが朝思った内容ともつながりそうです。
Suppose she wasn’t really going to stay here! She would imagine she was.
ほんとうはここにいられないにしても、まあかりにいられるとしておこう。
アン自身も、ゼラニウムのように、想像/現実の二重に暮らしているのでした。