福西です。
ウェルギリウス『アエネーイス』(岡道男・高橋宏幸訳、西洋古典叢書)を読んでいます。
(その1)の続きです。
ニーススとエウリュアルスの死は、作戦の上ではまったく意味のない(inanisな)、無駄死です。伝令としての役目を果たせなかったからです。たとえ多くの敵を殺したとしても、空しいばかりです。ルトゥリー軍からすれば、「こいつらはたった二人で、なんてことをしやがったんだ」と憤る(improbusな)出来事です。
第9歌の前半は、『イーリアス』でいうと、ドローンの章にあたります。トロイア人ドローンは、オデュッセウスとディオメデスにつかまり、近くにトロイア側の援軍(レースス王)が来ているという情報を白状したのち、殺されます。そのような小物として描かれています。そしてオデュッセウスとディオメデスは、レースス王の陣に乗り込み、たった二人で王以下を虐殺します。「レースス王の馬がトロイアの地を踏むとトロイアは陥落しない」と予言されていただけに、その顛末は哀れです。
『アエネーイス』の作者ウェルギリウスは、これを本歌取りし、敗れた側にも花を持たせています。すなわちニーススとエウリュアルスの二人を、まるで未来のローマの読者同様、歴史の主人公たちとして扱っています。
「幸せなる二人よ」(Fortunati ambo!)には、作者の万感の思いが込められています。「わたしのうたにいかばかりかの力があるならば」と。つまり、『アエネーイス』という作品が歌い継がれる限り、より大げさに言えば、歌い継ぐ人類が存続する限り、彼らは忘れられない存在となるだろう、と。ここでも、叙事詩における未来形の動詞が響きます。
以下は、「幸せなる二人よ」の原文4行です。
446
Fortunati ambo! si quid mea carmina possunt,
voc. voc. O S S V
互いに(ambo)幸せな者たちよ(fortunati)! もし(si)私の歌が(mea carmina)なんらかのことを(quid)できるなら(possunt)、
carmina < carmen 歌n.pl.nom.
possunt < possum(英語のcan)pr.3.pl. →ここだけ現在形
447
nulla dies umquam memori vos eximet aevo,
nom. abl. O V abl.
いかなる日も(nulla dies)記憶する歳月から(memori aevo)お前たちを(vos)決して(umquam)奪い去らないだろう(eximet)。
eximet < eximo(3) 奪い去るfut.3.sg.
448
dum domus Aeneae Capitoli immobile saxum
S gen. gen. O O
アエネアスの(Aeneae)家が(domus)カピトリウムの(Capitoli)不動の岩を(immobile saxum)
immobile 第3形容詞の中性の形。saxum(岩)が中性なので。
449
accolet imperiumque pater Romanus habebit.
V O S S V
住居とするだろう(accolet)限り(dum)、そして(que)ローマの(Romanus)元老院が(pater)支配権を(imperium)持つだろう(habebit)(限り)。
accolet < accolo(3)住むfut.3.sg.
habebit < habeo(2)持つfut.3.sg.