西洋古典を読む(2022/6/22)(その2)

福西です。

ウェルギリウス『アエネーイス』(岡道男・高橋宏幸訳、西洋古典叢書)を読んでいます。

(その1)の続きです。

 

ニーススとエウリュアルスの死は、作戦の上ではまったく意味のない(inanisな)、無駄死です。伝令としての役目を果たせなかったからです。たとえ多くの敵を殺したとしても、空しいばかりです。ルトゥリー軍からすれば、「こいつらはたった二人で、なんてことをしやがったんだ」と憤る(improbusな)出来事です。

第9歌の前半は、『イーリアス』でいうと、ドローンの章にあたります。トロイア人ドローンは、オデュッセウスとディオメデスにつかまり、近くにトロイア側の援軍(レースス王)が来ているという情報を白状したのち、殺されます。そのような小物として描かれています。そしてオデュッセウスとディオメデスは、レースス王の陣に乗り込み、たった二人で王以下を虐殺します。「レースス王の馬がトロイアの地を踏むとトロイアは陥落しない」と予言されていただけに、その顛末は哀れです。

『アエネーイス』の作者ウェルギリウスは、これを本歌取りし、敗れた側にも花を持たせています。すなわちニーススとエウリュアルスの二人を、まるで未来のローマの読者同様、歴史の主人公たちとして扱っています。

「幸せなる二人よ」(Fortunati ambo!)には、作者の万感の思いが込められています。「わたしのうたにいかばかりかの力があるならば」と。つまり、『アエネーイス』という作品が歌い継がれる限り、より大げさに言えば、歌い継ぐ人類が存続する限り、彼らは忘れられない存在となるだろう、と。ここでも、叙事詩における未来形の動詞が響きます。

以下は、「幸せなる二人よ」の原文4行です。

446

Fortunati ambo! si quid mea carmina possunt,

  voc.    voc.        O   S     S        V

互いに(ambo)幸せな者たちよ(fortunati)! もし(si)私の歌が(mea carmina)なんらかのことを(quid)できるなら(possunt)、

carmina < carmen n.pl.nom.

possunt < possum(英語のcanpr.3.pl. →ここだけ現在形

 

447

nulla dies umquam memori vos eximet aevo,

 nom.                abl.    O   V     abl.

いかなる日も(nulla dies)記憶する歳月から(memori aevo)お前たちを(vos)決して(umquam)奪い去らないだろう(eximet)。

eximet < eximo(3) 奪い去るfut.3.sg.

 

448

dum domus Aeneae Capitoli immobile saxum

        S     gen.      gen.     O       O

アエネアスの(Aeneae)家が(domus)カピトリウムの(Capitoli)不動の岩を(immobile saxum

 immobile 第3形容詞の中性の形。saxum(岩)が中性なので。

 

449

accolet imperiumque pater Romanus habebit.

  V    O    S       S        V

住居とするだろう(accolet)限り(dum)、そして(que)ローマの(Romanus)元老院が(pater)支配権を(imperium)持つだろう(habebit)(限り)。

accolet < accolo(3)住むfut.3.sg.

habebit < habeo(2)持つfut.3.sg.