『赤毛のアン』を読む(西洋の児童文学を読むB、2022/5/27)

福西です。

『赤毛のアン』(モンゴメリ、村岡花子訳、新潮社)を読んでいます。

p26~36を読みました。第2章の続きです。

「まあ、クスバートさん! まあ、クスバートさん!! まあ、クスバートさん!!!」

“oh, Mr. Cuthbert! Oh, Mr. Cuthbert!! Oh, Mr. Cuthbert!!!”

りんごの花の並木道(Avenue)に差しかかった時、アンが思わずこう叫びます。(!の数は原文のまま)

作品を代表するシーンの一つです。アンは、花の天蓋を見上げながら、うっとりと口を閉じて馬車に揺られます。そしてこのあと、ここを『歓喜の白路』(White Way of Delight)と名付けます。

映画『赤毛のアン』(ミーガン・フォローズ主演、ケビン・サリバン監督、1986年)が、このシーンをよく表しています。それを観ておきました。

 

『英語で楽しむ赤毛のアン』(モンゴメリ/英文、松本侑子/対訳・解説・写真、the japan times出版)で、以下の原文を味わいました。アンがマシューに、赤毛の悩みを打ち明けるシーンです。

“But just now I feel pretty nearly perfectly happy. I can’t feel exactly perfectly happy because—well, what color would you call this?”

She twitched one of her long glossy braids over her thin shoulder and held it up before Matthew’s eyes. Matthew was not used to deciding on the tints of ladies’ tresses, but in this case there couldn’t be much doubt.

“It’s red, ain’t it?” he said.

The girl let the braid drop back with a sigh that seemed to come from her very toes and to exhale forth all the sorrows of the ages.

“Yes, it’s red,” she said resignedly. “Now you see why I can’t be perfectly happy.

「pretty nearly perfectly」とか「exactly perfectly」とかが、日常では決して使わない、アンらしい表現ですね。

アンの話しぶりは、どこか非日常的で、芝居がかっているように感じます。しかしその「癖」がなければ、アンは孤児院での寂しさや退屈にたえることができなかったでしょう。これはアンに付きまとう、想像力(空想)の副作用なのかもしれません。

ところで、アンは、想像力でも唯一補えない悲しみが「赤毛」だと言います。

アンはやたらにおしゃべりしているようですが、

・赤い道にさしかかる→赤毛の話

・想像力で克服する話→想像力で克服できない話

このように連鎖的に推移しています。作者がそうなるように論理的に書いているからです。作者のストーリーテラーとしての腕を感じます。

また、想像力の話から、神々しい美しさを想像することができるかどうかという話になり、以下の問いにつながります。

「小父さんはどれがいい? 神々しいくらい美しいのと、すばらしく賢いのと、天使のように善良なのと?」

“Which would you rather be if you had the choice—divinely beautiful or dazzlingly clever or angelically good?”

まるでパリスの審判みたいです。ここを読むたびに、読者は以前の考えを引き合わせ、うーんと考えることでしょう。

マシューは「そうさな」「わからんがな」と、答えられないという意味の答を返します。

ちなみにアンの属性は、このうちでいえば、賢さだと(作者が暗示しているように)思われます。そしてギルバートはそこに惚れることになります。この問いかけがその伏線と言えるでしょう。

 

この「神々しいくらいの美しさ」の話のあとに、最初に見た「クスバートさん!」の並木道のシーンへとつながります。