2度目の春に

ご無沙汰しております。教養英語・講師の塩川です。
昨年度開講の本講座もお陰様で再び春を迎えることができました。昨年度より継続の2名に、今学期から新しく2名が加わり、計4名の受講生の方々と、毎週学びの場を共にできること大変嬉しく思っております。昨日、第2回の講義が終了しました。今学期はまず「救済とは何か」という問題を扱い、「救済」に関するイメージを獲得することを目指しています。これまでの講義では、導入部分に取り組んでいます。ここまで、1回にわずか2段落というゆったりとしたペースですが、これは参加者の熱量の証です。構造や単語の意味の取り方を吟味しながら英語を読みたい、ひとりでは読めないテクストをみんなで読んで理解したい、という皆さんの思いに、私自身大いに刺激を受けています。
内容に関して言えば、この2回は「福音は受け手志向である」「福音は文脈化される」という表現の理解に時間をかけました。参加者の方々から、マクグラスのテクストに関して、積極的に疑問や意見を出るのは、とても喜ばしいことです。私の側からは、マクグラスが上記の命題をキリスト教の伝道と結びつけていることに着目し、次の2つの文章を紹介しました。遠回りに思われるかもしれませんが、密度の高いテクストを読む際には、思想の源流に遡ったり、具体的な議論に触れることが、理解の助けとなるように思われます。

わたしは、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。できるだけ多くの人を得るためです。ユダヤ人に対しては、ユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を得るためです。律法に支配されている人に対しては、わたし自身はそうではないのですが、律法に支配されている人のようになりました。律法に支配されている人を得るためです。また、わたしは神の律法を持っていないわけではなく、キリストの律法に従っているのですが、律法を持たない人に対しては、律法を持たない人のようになりました。律法を持たない人を得るためです。弱い人に対しては、弱い人のようになりました。弱い人を得るためです。すべての人に対してすべてのものになりました。何とかして何人かでも救うためです。福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです。(第1コリント9:19-23)

ときには、この異教徒の特性を認めて、それに合わせようとする「恵まれた」宣教師も出てきます。その人たちは白いカラーを脱ぎ捨て、頭に辮髪を結い、パイや故国の御馳走を断ち、畳に足を曲げて坐ることを習い、ありとあらゆる方法や態度を尽くして、人々の魂をイエスに導く仕事に熱意を注ぎます。そのような人を私たち異教徒は喜んで受け入れます。彼らは私たちを光明と真理とにいたらせるために驚くほどの援助をするので、その善事に対して私たちは彼等と彼等を遣わしたカミに感謝します。(内村鑑三(鈴木範久・訳)『余は如何にしてキリスト信徒となりしか』岩波文庫、263-264頁)

議論の導入にはもう少し時間がかかりますが、しっかりと理解しながら進むことが大切です。
「分からない」を共有し、「分かる」にたどり着くため、ともに学び合うことができる場を作っていければと思います。
またいずれ教室の様子をご紹介致します。今年度も宜しくお願い致します。