【いよいよ4/21(木)より】ギリシア・ローマの歴史を読むクラス、開講

古代史家モーゼス・フィンリーの論考12編を集めたThe Use and Abuse of Historyから、いくつかの章を選んで読み進めていきます。

テーマ上独立した12編の論考なので、どこからでも読み始められるものです。

4月からは、第一章“ Myth, Memory and History ”を読んでいくことになりました。
その内容について、担当の大野先生が詳しく記して下さいましたので、以下にご紹介致します。(「ギリシア・ローマの歴史を読む」クラス紹介ページより)
受講を検討されたい方は、「初回クラス体験」も可能ですので、是非お申し込み下さいませ。

Myth, Memory and History:内容紹介(2022年3月17日実施、ガイダンスより

「…すなわち、詩人の仕事とは、実際に起こったことを語るのではなくて、起こりうるようなことを、つまり、ありそうな仕方で、あるいは必然的な仕方で起こる可能性のあることを語る、ということである。なぜなら、歴史家と詩人とは、韻文で語るか、散文で語るかという点において異なるわけではないからである(実際、ヘロドトスの著作は、韻文に直すこともできるであろうが、その著作は韻律があっても、韻律がない場合に劣らず歴史の一種であるだろう)。むしろ違いは次の点にある、すなわち、歴史家は実際に起こったことを語るが、詩人は起こりうるようなことを語るということである。それゆえ、詩作(ポイエーシス)は、歴史(ヒストリアー)よりもいっそう哲学的であり、いっそう重大な意義をもつのである。というのも、詩作はむしろ普遍的な事柄を語り、歴史は個別的な事柄を語るからである。

ここで「普遍的な事柄」というのは、どのような人にとっては、どのようなことを語ったり、なしたりすることが、ありそうな仕方で、あるいは、必然的な仕方で起こるのかということであって、このことこそ詩作は、登場人物に個々の名前をつけながらも目指しているのである。他方、「個別的な事柄」というのは、アルキビアデスが何をなし、どんな目にあったのかといったことである。」(アリストテレス『詩学』1451b)

詩と歴史を対比させたアリストテレスの有名な言葉を手掛かりにして、フィンリーは、古代のギリシア人にとって、歴史がどのような意義を持っていたかという問いを追求する。ギリシア人が詩と歴史を対比するのは、両者がともに過去を語るための様式でありながら、その性格を異にしていたからである。即ち、詩が語るのが時系列に囚われない神話の世界であるのに対して、歴史の語りは、あくまでも時系列の中で展開するものである。そしてギリシア人の歴史叙述の背後には、無時間的な神話の世界が広がっており、両者は断絶することなく、かといって一方が他方を飲み込んでしまうこともなく併存していた。現代人がこれを不可解だと思うのは、過去から未来に向かって一直線に伸びる、均質的な時間の観念を前提にしてかかるからである。ギリシア人の時間の捉え方はそのようなものではなかった。彼らには彼らなりの時間の捉え方があり、記憶の在り方があった。それはどのようなものであったのか。また、冒頭の引用でアリストテレスが述べた歴史の特徴 (限界)、すなわち歴史が普遍的なことを語りえないという問題を、トゥキュディデスはじめギリシアの歴史家たちはどのように超克しようとしたのか。歴史と神話、そして両者の共通の基盤である記憶について、古代ギリシア人の側に立って考察した論考。

(事務担当 梁川)