山下です。
ウェルギリウスの『アエネーイス』冒頭の1行は、Arma virumque cano.で始まります。
グーグル翻訳だと、
私は腕と男を歌います
となります。
少し前だと以下の通りで、若干の改善が見られます。
Arma virumque cano. 私は腕の歌います
いずれ正しく、「私は戦争と一人の英雄を歌う」と訳せる日も訪れるでしょう。
(これほどの古典作品は正解?をインプットする手もありますが。)
ただし、それぞれの表現は本歌どりの結果であったり(ホメロスの2作品の影響など)、一字一句にこめられた二重三重のメッセージの汲み取りは、翻訳ソフトではカバーできないでしょう。
たとえば、armaは戦争と武器の意味があり、これを武器ととると、前作「農耕詩」における「農具」をarmaと表現する話が想起されます。
さらにcano(私は歌う)について、前作「農耕詩」の最後の部分(「印章=スプラギス=絵画でいえば直筆のサインのようなもの)で、以下のように述べていたことが想起されます。
Haec super arvorum cultu pecorumque canebam
et super arboribus, Caesar dum magnus ad altum 560
fulminat Euphraten bello victorque volentes
per populos dat iura viamque adfectat Olympo.
Illo Vergilium me tempore dulcis alebat
Parthenope studiis florentem ignobilis oti,
carmina qui lusi pastorum audaxque iuventa, 565
Tityre, te patulae cecini sub tegmine fagi.
私は畑の耕作、家畜の飼育、
また樹木について歌った。一方偉大なるカエサル(アウグストゥス)は、底深き
エウフラテース川の傍らで、戦の雷を放ち、
勝利者として服従する人民に法を与え、天への道を目指して進んだ.
その間、うるわしきパルテノペーは誉れなき閑暇の仕事において活躍した私ウェルギリウスを養ってくれた.
その私とは、かつては牧人の歌を戯れに歌った者である.若き日に大胆にも
ティーテュルスよ、枝を広げたぶなの木の下でおまえを歌った者である。(4.559-566).
詩人の過去と現在が、アウグストゥスの過去、現在、未来と対置されています。
詩人の未来は空白となっています。次に完成させる叙事詩がこれに当たります。
また、その完成によってアウグストゥスの神格化も完成することが示唆されています。
ということで、その叙事詩(=アエネーイス)の冒頭が上の引用個所の太字の単語(canebam, ceciniはcanoの活用した形)と関連したcanoを含む点も注目されます。
これはほんの一例です。
山の学校の語学クラスでは、一字一句の意味にこめられたメッセージや作家の工夫も味わいながら、丁寧に読み進めています。
私の講習会でも、文法的に正しい訳を追求するだけでなく、過去の解釈の伝統を踏まえつつ、内容についてもめいめい意見を述べ合っています。