福西です。
(その1)の続きです。
次の日、市田先生が復帰しました。先生は、よれよれの背広を着ています。約束通り、秘密を話す時がきました。みんなが口々に言おうとしたとき、俊也が制します。
「おいおい、だまれよ。最初は始だ。」
そのことばの含みに「あっ」となって、クラスにあかるい笑いが広がります。
この物語は、始から始まったのだと。
始が転校した当初、クラスは「三十六人の一人ずつ」という構図でした。なぜなら、市田先生の「がんばれ」によって、席は成績順で決まり、できる子とできない子との心に溝があったからです。
それが、びりっかすというファンタジーによって、一つにつながりました。
市田先生が謝るかのように、めがねをはずした時、みんなは驚きます。
運動会のあと、いなくなってしまったびりっかすの面影が、そこにあったからです。
このお話のファンタジー要素は、びりっかすを通じて「心の中のおしゃべり」ができたことでした。けれども、本当にそれはファンタジーでしょうか? クラスで小学生たちは、そのような「心で会話する力」を普段、使っていないでしょうか? あるいは、先生はクラスの黒子なって、声なき心を声化していないでしょうか?
このクラスは、びりっかすがいなくなった後も、「普通の声」で、クラスの輪を作っていくでしょう。また、市田先生も、これからはクラスの声の交通整理を買って出ることでしょう。
そんな希望を抱かせてくれる終わり方でした。
次は、『ポアンアンのにおい』(岡田淳、偕成社)を読みます。同じ作者の作品です。お楽しみに!