『リンゴ畑のマーティン・ピピン』を読む(西洋の児童文学を読むC、2022/1/27)(その1)

福西です。

『リンゴ畑のマーティン・ピピン』(エリナー・ファージョン、石井桃子訳)、第2話「若ジェラード」を読んでいます。

前回、コーツの荒殿とその取り巻きにからまれ、若ジェラードはシアと無理やりキスをさせられました。そしてキスの代償として、殴る蹴るの暴行を受け、意識を失います。

若ジェラードが意識を取り戻した時、老婆が現れ、彼を次のように励まします。

「若い羊飼いよ、わたしは、それほど老いてはおらぬ。まだ、若さの苦しみはおぼえている。」

「その苦しみとは、何だ?」

どれいのからだに、主人の心を宿すこと(To bear the soul of a master in the body of a slave)。」と、老婆はいった。

「花でありながら、つぼみにつつまれておらねばならぬこと(to be a flower in a sealed bud)。

雲のなかの月であり、氷にとざされた水であること(the moon in a cloud, water locked in ice)、

年もはじめの春であること(Spring in the womb of the year)、愛を愛とさとらぬこと(love that does not know itself)。」

「だが、いつさとることができるのだ?」とジェラードはゆっくり聞いた。

「ああ、それをさとるときがくる!」老婆はいった。

以前、老ジェラードは「お前も一度は若かった」と言われ、「それがなんだ?」と答えました。

一方、若ジェラードは、「その苦しみとは、なんだ?」と尋ねています。よって、老婆も「どれいのからだに、主人の心を宿すこと」と返答します。

老ジェラードには、「おやすみ」と言った妖婆が、若ジェラードには「目覚め」を促しています。

続けて、老婆は若ジェラードに言います。

Then the flower of the fruit will leap through the bud, and the moon will leap like a lamb on the hills of the sky, and April will leap in the veins of the year, and the river will leap with the fury of Spring, and the headlong heart will cry in the body of youth, I will not be a slave, but I will be the lord of life, because—

「そのとき、果実の花は、つぼみのからをつきやぶり、

月は子羊のように天空の丘におどり出、

四月は年の脈のなかに動きだし、川は、春の水ではげしくおどり、

血気にはやる胸は、若者の身内で、こう叫ぶ。

『おれはどれいではない、おれは、いのちの主だ、なぜならば──』」

“Because?” said Young Gerard.
“Because I will!”

「なぜならば?」

「なぜならば、おれがそれを欲するから。」

このあたりの表現は、車輪の回転が停止し、そこから一気に逆回転するかのようです。

若ジェラードは、シアを連れ去ったコーツの荒殿一行が、大水を無理やり渡ろうとしていることを知ります。そしてシアを助けに向かいます。

そのとき、これまで一度も火がつかなかった角灯(この物語を構成するアイテムの一つ)に、火がともったのでした。